
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第25章②
「合唱だ」
絵梨奈がスクリーンのほうを見て、ぽつりと言った。
僕たちが三年生のときの合唱コンクールの写真が映っていた。ご丁寧に、BGMも当時の僕たちの合唱に変わっている。
絵梨奈と違うクラスだったとはいえ、あの年の合唱コンクールは悪い思い出ではなかったはずだ。僕は伴奏者賞を、絵梨奈は指揮者賞をもらってもいた。
それなのに、僕はスライドを楽しむことができなかった。息が苦しくなるような時間だった。
しばらく何も言わずにスクリーンを眺めていると、今度は卒業式の写真になった。
卒業証書授与、卒業生答辞、そして、卒業生合唱。
ピアノを弾く僕のアップの写真が映し出された。
「あ、湊」と、隣で絵梨奈が呟く。
卒業式で、絵梨奈の指揮に合わせてピアノを弾くことができて、僕はたしかに幸せを感じていた。僕の指は滑らかに躍り、明るい色が浮かび上がっていたはずだ。
でもあのとき見えていたものが、今の僕にはまったく見えない。
僕はさっき食べたものを吐き出してしまいそうな気分になった。
「湊、どうしたの? どこか具合でも悪いの?」
絵梨奈に背中をさすられて気がついた。
体が震えていた。呼吸が荒れていた。
「立てる?」と訊かれたので頷くと、絵梨奈は僕をパーティルームの外へ連れ出した。
ホテルのスタッフを呼ぼうかとも言われたが、それは断った。
ひとまず僕たちは、ロビーの片隅にあった長椅子に腰かけた。
動悸は鎮まり、呼吸もだいぶ整ってきた。
それでも絵梨奈はしきりに「大丈夫?」「どうしたの?」と繰り返していた。僕は絵梨奈の顔を見られなかった。
こうなっては、もう隠せないと思った。隠してもしかたない気がした。
僕は意を決して口を開いた。
「……実はさ、音楽に、色が見えなくなったんだ」
「えっ……?」
顔を見ていなくても、彼女の動揺が伝わってきた。
「いつから? どうして見えなくなったかはわからないの?」
「高三の夏の、絵梨奈が見に来てくれた、あのライブのあとから」
ひとまず事実を述べる。加えて、個人的な考えも伝えることにした。
「原因は、過呼吸で倒れたショックみたいなものだと思ってる……けど、正確なところはわからない。どうすれば治るのかも、まだ……」
絵梨奈は少し考えこみ、それからおずおずと尋ねた。
「……ねぇ、もしかして湊、さっきバンドやってないって言ってたけど、ほんとは…………」
絵梨奈は僕の現状を悟ったようだった。
僕は頷いて、彼女の言葉の先を続けた。
「ほんとはバンドだけじゃなくて、音楽そのものを、僕はもう全然やってない。音楽をする気が起きないんだ」
まるで自分に災いが降りかかったかのように、呆然とする絵梨奈。
少しの間を空けて、「そうだったんだね。つらかったね」と、痛ましそうな声で呟いた。
そして絵梨奈は、僕の背中をそっと支えた。
「また色が見えるようになるといいね」
「……ありがとう」
声を振り絞って答えた。
音楽に色が見えなくなった僕を、絵梨奈は否定しなかった。隠していたことを怒ったりもしなかった。
僕は再び胸が締めつけられる思いがした。
この話はもう避けるべきだと思ったのか、絵梨奈は僕から手を離して、「ところでさ」と話題を変えてきた。
「湊も聞いた? またこういう同窓会やるんだって」
「あ、そうらしいね。まあ、早くても五年後にはなるだろうって話みたいけど」
二次会の幹事を務める江崎くんが、先ほど先生たちと笑いながらそんな会話をしていたのを、僕は小耳に挟んでいた。
「……それで湊、提案なんだけど」
急にかしこまって、絵梨奈は言った。
僕は「何?」と先を促す。
「次の同窓会まで、お互い顔を合わせず、連絡もとらないことにしない?」
「えっ……?」
愕然とした。
次の同窓会までとなると、最低でも五年ほど、絵梨奈と会わず、メールもしないということだ。
「湊と縁を切りたいわけじゃない。そこは勘違いしないでほしい」と絵梨奈。
「じゃあ、どうして……」
僕の言葉に、絵梨奈は目を細めて遠くを見つめた。
そして「ちょっと長くなっちゃうけど」と前置きして、語り始めた。
「私が行ってた、東京の
私はそんな雰囲気に全然なじめなくて、気がつくと授業にもついてこれなくなってて……何より、学校のどこにも居場所がなくて、それがつらかった。
それで、あからさまないじめとかじゃなくて、陰湿な嫌がらせみたいなのをね、実は私、けっこう受けてたんだ。でも親や親戚には心配かけたくなかったから、なかなか相談もできなくて……」
中学までの絵梨奈しか知らない僕には想像できなかった。
中学時代にもクラスで孤立しかけていたことはあったが、クラスの外には彼女の幼なじみの友人や部活で親しくしている先輩もいたので、教室以外の場ではそこまで困った様子は見受けられなかった。
けれど高校では、そんなふうに頼れる存在はいなかったのだろう。
「私の高校でも文化祭とかはあったんだけど、私のほうからは誘わなかったじゃない? 実を言うと、あの頃の学校での姿を、湊には見せたくなかったから」
「……そう、だったんだ。何も知らずに、ライブとか声かけちゃって、ごめん」
「ううん、湊が謝ることじゃない。誘ってくれて嬉しかったよ。高校時代、私が前を向けたのは、湊のおかげ。それは忘れないでほしい」
絵梨奈は僕に向かって、屈託なく笑ってみせた。
そうかと思うと、今度は悩ましげに目を伏せた。
「……でもさ、いつまでもそれでいいのかなって、ふと考えちゃって」
「どういうこと?」
「あの高校を受けたのは、家庭の事情とか将来のこととか、まあいろいろあったんだけどね。湊と同じ場所にいたら、きっと私は湊に依存しちゃうんじゃないか。そんな気持ちも、実をいうとあった。実際、湊には何度も元気をもらってたし、助けられてた。
でも私たちってさ、小学校に上がる前からの仲でしょ? そんな──言ってしまえば古い仲の人にいつまでも頼ってるのって、どうなのかなって思ったの。これから何人もの人に出会うのに、新しい関係を無条件に軽んじちゃうのって、もったいないし失礼かなって」
僕は変化を好まなかった。変わっていないと言われたことに安心していた。
絵梨奈は、そのことに疑問を感じたわけだ。
──変わったと、思ったんだけどな。
そう言ったときの、暗い表情。あれはそういうことだったのか。
僕は知らず知らずのうちに、彼女を傷つけてしまったのではないだろうか。
「あ……さっきは、ごめん。変わってないね、とか言っちゃって」
「いいの。私だって、見た目はそんなに変わってないと思うし」あっけらかんと絵梨奈は答えた。「でもさ、私たちはそろそろ、新しいことに触れていかなきゃいけないんだと思う。……うん、そうだよ湊。そうしてるうちに、見えなくなった色だって、きっとまた見えるようになるよ」
ああ、そうか。
再び音楽に色が見えるようになるヒントは、ひょっとすると僕がまだ知らないところに眠っているかもしれないのだ。
「これは私たちが一人前の大人になるための通過点。だから、さよならは言わない」
絵梨奈がまっすぐ僕を見つめた。
心臓が一段と高く跳ね上がる。
さよならは言わない。優しく力強いその言葉に、僕は慰められた気がした。
「次の同窓会──五年後なら、私たちは二十五歳になってるよね。そこで再会したときに、一人でも立って歩けるような、立派な大人になってようねって、そういう約束」
絵梨奈の顔つきは、僕の記憶にはない、大人の女性のものになっていた。その瞳には強い決意が込められていた。
彼女なら、きっとこの先も大丈夫だろう。そう思わせてくれた。
果たして僕は大丈夫だろうか。そんな不安は、今はしまっておこう。
「……わかった。じゃあ絵梨奈、必ず、また会おう」
「うん、必ず。同窓会で会えるの、楽しみにしてる。またね、湊」
絵梨奈がにっこりと微笑んだ。
その笑顔を、僕は頭の中に焼きつけた。
ちょうどそのとき、パーティルームから次々と同級生たちが出てきた。
二次会もお開きとなったようだ。
このあとは中三のクラスごとに分かれての三次会が予定されていた。
僕と絵梨奈はクラスが違ったので、このタイミングで自然と別れることになった。
不安、寂しさ、劣等感。
いろんな感情が渦巻く中、僕はホテルをあとにした。
*
僕は三次会には参加せず、ここで帰宅することにした。
翌日に大学の授業があり、朝一番の電車に乗る必要があったのだ。
外はすっかり真っ暗だった。
加えて、昼の晴れ空が嘘のような大雪が降っていた。コートを着ていても凍えるほど寒い。もちろん、足元には積雪もある。
──雪が溶けると春になる。
かつての恩師の言葉を思い出した。
僕にとってはある意味、この日再会した教師より大切な先生の言葉だ。
家までは徒歩で帰れる距離だった。幸い傘も持っていた。
しかし、この帰り道は心身ともになかなかしんどかった。
夜の暗闇と大雪が視界を奪う。
積もる雪はまっすぐ歩くことさえ許さない。
次第に風も強くなってきた。明日は雪で電車が止まって、大学には行けないかもしれない。
──雪が溶けないと、僕はどこにも行けないんだろうか。
そんな考えが頭をよぎった。
それでもこの先の人生を、僕は歩いていかなければならない。
絵梨奈の前で、一人前の大人になった、と胸を張れるように。
かつて見えていた鮮やかな色彩を、もう一度取り戻すために。
再会したとき、絵梨奈と対等な人間になったと誇れるように。
僕が絵梨奈にとって特別な存在で──ヒーローであるために。
Film.2 ~ブループリント~ 了
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次 → 『白と黒の雪どけに』Film.3 ~君ともう一度会うために~ 第26章 (近日公開予定)