
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第22章
ステージが明るくなった。
顔を上げると、ステージ上手寄り、やや後方ではあるが僕のちょうど正面くらいの位置に、絵梨奈の姿が見えた。
だが忘れてはならない。僕たちの曲を聴くのは、絵梨奈だけではないのだ。
全国の大きなステージで、もう一度、この五人で演奏を。
そのために、僕たちにできる最高のものをここに残そう。
paletteの色は、聴く人に受け入れられるだろうか。その答え合わせをしようじゃないか。
──引き金はとても小さなものだった。
一曲目、一番のサビの部分で、僕は些細なミスタッチを犯した。
とはいえ、ボーカルとギターが前面に出ている部分だ。おそらく僕の音はかき消されて、ミスには誰も気づいていないだろう。
それ以外は無事にやり切った。
けれど、なんだろう。この言いようのない違和感は。
ミスはすぐ持ち直した。それ以外は練習どおりに弾くことができた。
演奏中に見えた色も、今までと同じか、それ以上のものだったはずだ。
なのに、どうしてこんなに手が震えているんだ? どうしてこんなに呼吸が乱れているんだ?
曲の間にあいちゃんがMCを挟むが、聞いている余裕がなかった。
あたりがしんとなって、我に返る。
あいちゃんがこちらをちらりと振り返った。二曲目の前振りを言い終えたらしい。
今の空白は何秒あった? 不自然に間が空いたりしていなかったか? まさかこれでタイムオーバーにはならないよな?
雑念を頭から追い払って、僕は鍵盤に指を置いた。
ついに、僕が作った曲を披露するときが来たのだ。
曲の頭は僕のソロだ。僕が弾き始めなければ、曲が始まらない。
──呼吸が荒れる。眩暈がする。
イントロは乗り切った。Aメロに入る。
しかし、どこかおかしい。
いつも通りに弾いているはずなのに、見える色がいつもと違う。
あいちゃんの声が、どことなく淀んで見えた。キスケのギターが、翠ちゃんのベースが、トイチのドラムが、いつもより掠れている気がした。
聞こえてくる音に問題はないはずなのに、色の乱れはどんどん激しくなっていく。
なんだこれは。そう思っている間にも、一つ、また一つと色が消え、調和のとれていた色彩が四散していく。
二番が終わって、間奏に入る。
まずはギターソロ、それからキーボードソロへ続く。間奏から大サビの部分こそが、僕の一番の見せ場だった。
いよいよだぞ、クライマックスだ、と言い聞かせる。
視界が明滅する。心拍数が嫌な上がり方をしている。
脚に力が入らなくなる。全身が痺れる。息が苦しい。
これはまずい、と直感した、次の瞬間だった。
異様な轟音が鳴り響いた。
僕は膝から崩れ落ちていた。
倒れた拍子に、僕の手が乱雑に鍵盤を押したようだった。
──鮮やかな景色が、真っ黒に塗りつぶされた。
*
僕はステージの上で過呼吸になったらしい。
その後、僕は大会スタッフの判断で救急車で病院に運ばれることになった。救急車にはあいちゃんが同乗した。
キスケと翠ちゃんは楽器を片づけて、トイチはスタッフと話をしていたそうだ。彼らもすぐライブハウスを飛び出して、病院まで駆けつけてくれた。
病院のベッドに寝かされるまで、僕は歩くことも、口をきくこともままならなかった。
とはいえ目が覚めてからは特に問題はなく、その日のうちに帰れることになった。
病室には母親がいた。そういえば救急隊員らしき人に親の連絡先を訊かれ、僕はかろうじて動かせた手で携帯電話を操作したんだっけか。
僕を気遣ってのことなのか、母は説教らしいことは言わず、友達が待ってるよ、と言って自分は会計などを済ませていた。
日曜だからか、それなりに広い病院のわりに人は少なかった。
あいちゃんたちの姿はすぐに見つかった。待合室の壁際の長椅子に、四人並んで座っていた。
僕が病室から出てくるのをずっと待ってくれていたようだ。右端に座るトイチが、僕の荷物をまとめて預かってくれていた。
「湊、大丈夫!?」
僕を見るなり、あいちゃんが泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
彼女を少しでも安心させるため、僕は笑ってみせた。
僕はすでに不自由なく歩けるくらいには回復していたが、あいちゃんが椅子のところまで僕に付き添ってくれた。
「ちょっとしたオーバーワークでしょう、だって。心配かけてごめん」
「……だいぶ顔色よくなったね」顔を綻ばせるあいちゃん。「救急車にいる間、顔は真っ青で唇なんてほぼ紫色だったんだから」
過度の緊張と疲労だろう、と医師は話していた。倒れてから何時間くらい経ったのか定かではないが、ベッドで寝ていたらだいぶよくなった。
とはいったものの、まだ懸念事項はある。
トイチ、キスケ、翠ちゃんと並んでいた左隣に、あいちゃんが座る。
その左側、僕は一人分のスペースを空けて腰かけた。
近づくことが、なんとなく気まずかった。
「……それで、大会は?」
僕はおずおずと、誰にともなく尋ねた。
四人は気まずそうな反応を示す。沈黙を破ったのはトイチだった。
「棄権した」
「えっ……?」
僕はほかの三人の反応を窺った。嘘ではなさそうだ。トイチは続けた。
「とても演奏を続行できるような状態じゃなかったし、湊を楽屋で寝かせて救急車を待つ間に、四人で話し合って決めたことだ。湊抜きで決めちまったのは謝る」
「いや、それはいいんだけど、じゃあ……」
僕の言いたいことを察したように、キスケがゆっくり頷いた。
「全国には進めません」
僕は呆然としてしまった。
「みんな……」僕は立ち上がって頭を下げた。「本当にごめん! 僕のせいで、最後の大会が……」
「いいんですよ。湊さんが無事で何よりです」キスケがなだめる。
「そうよ。湊くんが気に病むことはないわ。頭なんて下げないで」
翠ちゃんに言われ、僕は顔を上げた。
「でも、ほんとに棄権してよかったの? みんなにとって、ミューブレってそんな簡単に諦められるものだったの? 僕のせいで大会が──」
「大会なんかより、湊のほうが大事に決まってるでしょ!」
あいちゃんが激昂した。立った姿勢で正面から僕を睨む。
「あいちゃんも落ち着いてくれ」トイチも立ち上がった。そして今度は僕に言う。「だがな、あいちゃんの言うとおりだぞ湊。お前のせいで大会が、なんて誰も思っちゃいない」
そう言ってトイチは、僕とあいちゃんに座るよう促す。
「いいか湊、これは湊だけの問題じゃねぇ」僕の左隣に移動し、腰を下ろすトイチ。「リーダーのくせに、俺がメンバーに気を配れなかったってのもある。もとより曲を作らせたことが、少なからず湊にとって負担になってたと思う。ただでさえ三年生に進級して、勉強も忙しくなったんだからな。本当に、湊はよくやってくれたよ」
「別に、そんな……」
「私も、思うところはたくさんあるわ」翠ちゃんも俯きがちに口を開いた。「何かできたことはあったんじゃないかとか、本番中、どうにかして演奏を立て直すこともできたんじゃないかとか。……これは誰か一人の責任じゃない。私たちが、バンドとして招いてしまった結末なの」
あいちゃんは目を伏せて、膝の上で握り拳を作っていた。
「私だって、緊張してないわけじゃなかったし……、本番直前にあんなことがあって、動揺もしてた」
「あんなこと?」
キスケが尋ねた。これには僕が答える。
「CDを聴かせたい人がいるって、前に言ったでしょ? その人が今日、見に来てくれてたんだ。……で、本番前にあいちゃんに言われて思ったんだけど、僕はその人のことを意識しすぎてたんじゃないか、って……。聴いてる人はほかにもたくさんいるのにさ」
するとキスケは、苦しげに顔をゆがめた。
「それ言ったら俺だって、この前友人が亡くなったってのに、ギターなんて弾いててよかったのか、って思います。湊さん言ってくれたじゃないですか。俺が笑ってステージに立つことをアイツも望んでるはずだ、って」
「そ、そっか……。そうだよね……」
たしかに、それもそうだ。
亡くなった友人を思うなら全力でステージに上がることが一番だと、彼は悲しい顔でギターを弾くキスケの姿なんて見たくないはずだと、たしかに僕は言った。
絵梨奈を意識しないで演奏することは、その考えと矛盾するのではないだろうか。
僕が何も言えずにいると、あいちゃんが陽気な口調で話題を切り替えにきた。
「……だからさ、さっきみんなとも話してたんだけど、もう今日のことはいいから、次のこと考えよう、ね?」
「次?」
「文化祭だよ! 今日のリベンジは、そこで果たせばいい」
軽音部にはインターハイのような大会はないので、うちの三年生は例年、九月の文化祭ライブを最後に引退することになっていた。そこで有終の美を飾ろうというわけだ。
「そういうこった」トイチが僕の肩を叩き、ニッと笑った。「俺たちはまだ、完全に終わったわけじゃない。本番前に言っただろ。笑って終わらせるんだ、って。だから湊、いつまでも暗い顔しないでくれよ」
そうこうしているうちに、母がこちらにやってくるのが見えた。
用事をすべて済ませたらしい。そろそろ帰る時間だ。
「受験が終わったら卒ライもあるんだ。三月だから、まだ先だけどな」
トイチはそう言って立ち上がった。それから自分のカバンを持つと、預かっていた僕の荷物を僕によこしてきた。
翠ちゃんとキスケも自分の楽器を持ち、帰る準備を整える。
「今日はゆっくり休んでね、湊くん」穏やかに微笑む翠ちゃん。
「また学校で、元気に会いましょう」親指を突き立てるキスケ。
「そうだね。ありがとう、みんな」
僕も立ち上がり、シンセを背負う。あいちゃんも僕たちに続いて荷物をまとめた。
僕たちは五人揃って病院をあとにした。
*
それから僕は、母の車で帰宅した。
搬送先の病院が駅の近くだったこともあり、トイチ、キスケ、翠ちゃんの三人は、駅まで歩いて電車で帰ると言っていた。
近所に住むあいちゃんは、僕と一緒に母の車に乗っていくことになった。
まだ疲労が残っていたのか、それとも緊張の糸が解けたのか、母の車に乗った直後、僕は全身の力が抜けたような感覚に襲われた。数十分前まで寝ていたのに、こらえきれないほど眠くなった。
まどろみの中、あいちゃんが僕の手を握ってきたのがわかった。
そして僕の耳元でそっと囁いた。
「湊、お疲れ様」
その先のことは覚えていない。すぐ眠りに落ちてしまったようだった。
目が覚めたときには車は僕の家に到着していて、あいちゃんはすでに降りたあとだった。
帰宅した頃にはすっかり夜になっていた。大会はとっくに終わったことだろう。
paletteは棄権という形で、最後の大会を終えた。悔しくないと言ったら嘘になるが、それでも結果は受け止めることができた。
彼らとバンドができてよかったと、改めて思った。
そして、二カ月後の文化祭では最後までやりきろうと決意した。
*
このときの僕は、まだ気がついていなかったのだが。
目が覚めて以降、僕の中で大きな変化が起きていた。
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