
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第21章
ミューブレ県予選。会場は前年と同じライブハウスだ。
本番前、リハーサルを終えた僕たちは、別行動をとってそれぞれに気持ちを高めていた。
七月上旬。太陽が高く昇り、コンクリートに濃い影を落としている。
昼食を近所のコンビニの品で済ませた頃には、開場の時刻がすぐそこまで迫っていた。
僕は絵梨奈が来るまでライブハウスの外で待っていることにした。
もちろん、僕たちの曲を収録した音源──三月に渡すはずだったCDだ──を持ってくるのも忘れていない。
入口付近で、周囲の人をこまめに確認する。
駐車場では、出演者同士で会話していたり、本番での動きを細かく確認していたり、エアギターやエアドラムをやっていたりなど、さまざまな姿が見受けられた。
あいちゃんもその片隅にいた。日陰になっている場所で、発声練習をしているらしかった。集中している様子だったので話しかけに行くことはやめておいた。
開場の時刻になり、徐々にお客さんがライブハウスへ入っていく。
ほどなくして、絵梨奈がやってくるのが目に飛び込んだ。
「絵梨奈!」
足早に彼女に駆け寄っていく。
僕が外にいるとは思っていなかったのか、絵梨奈は一瞬驚いたような反応を見せて、それからふんわりと表情を緩めた。
「湊、久しぶり。この前はごめんね」
「気にしなくていいよ。それより、来てくれてありがとう」
絵梨奈が元気そうで、僕は胸をなでおろした。
Tシャツの上に半袖のパーカー、下は七分丈のパンツという、身軽な夏の装いの絵梨奈。荷物は小さなショルダーバッグ一つにまとめていた。
以前会ったときより少し細くなったように思えたものの、見ていて心配になるほどではなかった。体調を崩していたというので、すっかりやせこけてしまっていたらどうしよう、と思っていたが、杞憂だったようだ。
「そうそう、これ」僕は例のCDを差し出した。「卒業ライブで渡すって言ってたやつ」
「ありがとう。帰ったら聴くね」
絵梨奈はCDを受け取ると、ショルダーバッグにしまった。
「あとさ、今日やるのは二曲だけなんだけど、二曲目、僕が作った曲だから、よかったら、ぜひ絵梨奈にも、って思って」
「さっきのCDには入ってないの?」
絵梨奈が小首をかしげた。大人びているようでいて、時折こうした子供っぽいしぐさを見せるのも、彼女特有の個性だと思う。
「CD作った頃には、まだその曲はできてなかった。今日の大会のために用意した、新曲だから」
「そうなんだね。わかった。楽しみにしてる」
今度は大人の女性のように優しく微笑んで、絵梨奈はライブハウスの中に入っていった。
僕もそろそろ戻ろうか、と思っていたら、背後から声をかけられた。
「CDは無事に渡せた?」
あいちゃんが僕のそばにやってきていた。
「今のが、前に言ってた、湊がCDを聴かせたい人、だよね?」あいちゃんは重ねて問いかけてきた。
「そうだけど……あいちゃん、知ってたの? っていうか、見てたの?」
「遠くからちょっとね。何話してるかは聞こえなかったけど。まあ湊のことだから、あの人に聴かせたいんだろうなって」
どうやら僕は相当わかりやすいらしい。僕は頷くしかなかった。
「……湊ってさ、あの人のことばっかだよね」
揺さぶるようなあいちゃんの声に、思わずたじろぐ。
いつもの無邪気な口調とも、以前ライブ会場で絵梨奈と会ったときの冷やかし混じりの口調とも違っていた。
「そ、そうかな?」
「あの人のことが気になるのはわかる。だけど、今は、私と──私たちと音楽をやってほしい。……そう、聴いてるのはあの人だけじゃないんだよ」
僕ははっとした。
言われてみれば、僕は絵梨奈のことを意識しすぎていたかもしれない。
僕には聴いているお客さんや、一緒に演奏しているpaletteのみんなのことが見えていなかったのだろうか。そんなことを、今さらのように考えさせられる。
あいちゃんは大きな目で僕をじっと見ていた。探るような視線だった。
「ねぇ、あの人は湊にとってどんな人なの?」
僕は言葉に詰まってしまった。
彼女ではない、とは以前言った。けれど、じゃあ友達なのかというと、そうとも言い切れなかった。
僕が絵梨奈に対して抱く感情は、普通の女友達であるあいちゃんや翠ちゃんに対して抱くそれとは明らかに異なっていた。
「……友達だけど、ただの友達でもない、っていうか……。僕はさ、絵梨奈のおかげで、音楽に色が見える自分を肯定できるようになったんだ」
こう言っておくのが最も無難な気がした。
絵梨奈との関係は、やはり一言では言い表せそうになかった。
というより、言い表したくない、といった気持ちが強かった。
僕と絵梨奈の関係を、ほんの数文字で表現できるような通俗的な枠組みに落とし込んでしまったら、僕の中で絵梨奈が急速に色褪せてしまうような気がした。
するとあいちゃんは、どこか寂しそうに僕から視線を逸らして、独り言のように「そう、だよね……」と呟いた。
どうしたんだろう、何かまずいことでも言ってしまっただろうか。僕が戸惑っていると、あいちゃんはくるりと体を翻した。
「私はもうちょっと外の空気にあたってるよ。湊はどうする?」
「あ、ああ……、僕はそろそろ中に戻るよ」僕は慌てて答えた。
「そっか」言いながら、先ほどいた場所へ歩いていくあいちゃん。「じゃあ、またあとでね」
あいちゃんの背中を見送ってから、僕はライブハウスの中に戻った。
*
会場内は、やはり緊張感に満ちていた。
前回と前々回の全国大会出場バンド、ホワイトアウトの姿もあった。彼らの上をいかなければ、全国はない。
開演まではまだしばらく時間があった。僕たちの出番はさらに先だ。
僕は楽屋で気持ちを落ち着けることにした。
楽屋の中には楽器が所狭しと置かれていた。
一番手と二番手のバンドはすでに緊張した面持ちで待機していたが、それ以外の人は少なかった。
このライブハウスには大きめの楽屋が一つあるだけなので、出演者はここを譲り合って使うことになる。出番の二つ前のバンドが始まったら楽屋にいなければならないのだが、それ以外のときにわざわざこんな狭苦しい場所にいたいと思う人は多くないのだろう。
僕としては、楽屋ならダイレクトにステージから色を見せられることがないので、ある程度は心を落ち着かせることができる気がしたのだ。
僕は楽屋の片隅に移動して、壁を背にしてしゃがんだ。
絵梨奈に会えた。CDも渡せた。
話したいことはあとから次々と頭に浮かんできたが、すべてライブが終わってからでいい。今は本番で弾き切ることだけを考えよう。
膝の上で指を動かしてみる。このあと弾く曲の運指の確認だ。
一曲目。これはすでにライブで演奏したことがある。大会に向けてアレンジを練り直したが、今さら問題はないだろう。
二曲目。初披露となる、僕が作った曲。この曲では全体を通じて手を大きく動かすことになる。
──あれっ?
途中、指が迷った。
とはいえ膝の上ではスペースが不十分だし、鍵盤の上とは感覚がまったく違うので、ちょっと指の動きに戸惑うことは別段珍しくない。
僕は色を頭の中に思い描きながら、ひととおり指を確認していった。
大丈夫。鍵盤の上でなら弾けるはず。問題視するようなことじゃない。
一組目のバンドがステージに上がっていくのとほぼ同時に、トイチとキスケがやってきた。
僕が顔を上げると、
「湊さん表情が硬いですよ。楽しんでいきましょう」
とキスケ。数カ月前に友人を亡くしたショックは感じられない。たいしたものだ。
「ほれ、深呼吸しろ深呼吸」
トイチも一見、落ち着いているようだったが、キスケが茶化すように彼を肘で小突いた。
「何言ってんですか。ほかのバンド見たら緊張しそうだから楽屋にいようって言ったのは、トイチじゃないですか」
「おまっ、それ言うなよ……」
キスケに苦笑いを返しつつ、トイチは僕の隣に腰を下ろした。そしてスティックを手に、精神統一するように呼吸を整えていた。
しばらくすると、翠ちゃんが楽屋に入ってきた。
僕たちを見るなり、翠ちゃんは不思議そうな顔をした。
「あれ、あいちゃんまだ来てない?」
男三人が首を横に振る。
念のため、僕はここに来る前にあいちゃんと話していたこと、あいちゃんがまだ外にいると言っていたことを伝えた。
「私もさっきまで外にいたんだけど、戻ろうと思ってあいちゃんにメールしたら、もう中にいるって返ってきたのよ。だからてっきり楽屋にいるものだと……」
翠ちゃんはそこで言葉を切ると、「ちょっと探してくる」と言って出ていってしまった。
何かあったらどうしよう、という一抹の不安もあったが、数分後、翠ちゃんはあいちゃんを連れて何事もなく戻ってきた。
僕たちの二組前のバンドがステージに上がる直前だった。
「ごめん、遅くなった」
やや息を弾ませながら、あいちゃんが頭を下げた。
「なに、間に合ったからいいさ」トイチが立ち上がる。「ようやく全員揃ったな」
「トイチくん、緊張してない?」
「べ、別にそんなこと……」
「リーダーがガチガチでどうすんですか」
翠ちゃん、トイチ、キスケが軽口を叩き合う横で、僕も腰を上げた。
あいちゃんが一人、僕のほうに歩み寄ってきた。
僕の隣で壁に背を預け、彼女はぽつりと言った。
「湊、さっきはごめんね。調子狂わせちゃったかな」
「さっき? あぁ……」
僕は、先ほど会場の外であいちゃんと交わした会話を思い出した。
僕が答える前に、あいちゃんが続けた。
「あの人のことを悪く言いたかったわけじゃない。もちろん、湊が悪いとも思ってない」
「いや、いいんだよ。あいちゃんの言ってたことも、もっともだから」
「聴いてる人みんなに、私たちの音楽、届けようね。──私たちがこれから向かうのは、全国だから」
あいちゃんの言葉は、僕を励ますようでもあり、自分に言い聞かせているようでもあった。
「そうだね」僕は短く返事をした。
いよいよ僕たちの出番がやってきた。
「行くぞ。準備はいいな」
トイチが僕たちを鼓舞する。
あいちゃんが覚悟を決めたように頷く。キスケと翠ちゃんはすでに楽器を携え、最後の舞台に上がる決心を固めている。僕もシンセを持つ手にいっそう力が入る。
「泣いても笑っても、じゃない。笑って終わらせるんだ」
トイチが静かに、けれど力強く言い切った。
彼を先頭に、翠ちゃん、キスケ、僕、あいちゃんの順に、暗転したステージへと向かっていった。
本番前の緊張感。舞台に上がる高揚感。
高校に入って三年間、いや、ピアノの発表会も含めれば幼稚園の頃から、この気持ちは何度も経験してきた。そして毎回乗り越えてきた。
今回も、それと同じでいいはずだ。
音を耳に染み込ませ、曲を指に覚えさせ、色を頭に焼きつけてきた。
そう、何も変わらない。最後の大会でも、恐れることなど何もない。
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