
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第9章
案の定ではあったが、中三のクラスは絵梨奈とは別になった。
振り返ると、中学三年間では三年生のクラスが一番居心地がよかった。
三年生になってからは出席日数がまた常識的な数に戻った。蒲田ともクラスが離れたおかげか、クラスに僕のことを目の敵にするような奴はいなくなった。
絵梨奈も、僕が言うのもなんだが、一時期よりずっと顔色がよくなったと思う。
毎日姿を見るわけではないが、廊下などで見かけるときは、同じクラスの友人とよく一緒にいた。
二年生のときは孤立していることが多く精神的にも余裕がなさそうだったが、三年になってクラスが変わると、徐々に落ち着きが戻ってきたように見えた。
別々のクラスだったが、約束どおり、合唱コンクールで再び僕は伴奏に、絵梨奈は指揮に名乗りをあげた。
受験生になるからという理由で僕も中二の三月の発表会を最後に春子先生のピアノ教室は退会したが、勘が鈍らないように、ときどき家のピアノには触るようにしていた。
三年のときはクラスメイトが協力的だったことも幸いし、伴奏の練習にも熱を入れることができた。
歌声から見える色は、二年のときとは比べものにならないくらいカラフルで綺麗だった。
そのおかげもあり、十月の合唱コンクールで僕は伴奏者賞をとることができた。余談だが、クラスの合唱も銀賞に選ばれていた。
絵梨奈はというと、彼女も無事に指揮者賞を受賞していた。
心配はしていなかったが、安心したし嬉しかった。さすがだと思った。
さて、状況は整った。
僕はまた、絵梨奈の指揮でピアノを弾くことができる。
*
窓越しに外をちらりと見ると、校庭の枯れた草木が目に入る。
寒々しい冬の乾いた風が目に見えるようだった。
僕と絵梨奈が音楽の先生に声をかけられたのは、そんな二月の中旬。私立高校の入試がひと段落した頃だった。
職員室に呼ばれた僕たちは、卒業式での卒業生合唱の指揮と伴奏をお願いね、と先生から楽譜を渡された。歌う曲はすでに決まっているらしかった。
僕も絵梨奈も二つ返事で了承したので、話はすぐに終わった。
最後に一言、先生が絵梨奈に言った。
「白川さん、担任の先生に聞いたわ。
絵梨奈と二人、職員室を出て教室に向かう。廊下を歩きながら、僕は彼女に尋ねた。
「さっき先生が言ってた、蘇芳女子って、あの東京の?」
蘇芳女子高等学校といえば、東京にある、全国でも有数の名門女子校だ。
「湊には言ってなかったっけ。そう。蘇芳受けたの」
「すごいじゃん! あそこ受かったの? おめでとう!」
「ありがとう」誇らしげに絵梨奈は言った。「湊は私立どうだった?」
「受けたところは特待とれた」僕は答える。僕が受験したのはすべて地元の学校だ。「けど本命は県立」
「やっぱり、
僕は頷く。縹西高校というのは僕が第一志望としている県立高校だ。百年以上の伝統を誇るという、県内ではトップクラスの進学校。例年、受験倍率は県内随一の高さとなる。
僕たちの中学で成績優秀な生徒はたいていこの高校を受ける。中学の学区からは少し外れるものの、電車やバスを使わず通える場所にあるというのが大きい。僕の家からだと徒歩でも十五分ほどだ。
「欠席日数が多いから推薦はやめとけって担任に言われたけど、一般なら黒川は受かるだろうって」
僕たちは職員室のある二階から、三年生の教室がある三階へと階段を上がる。
これは地方の風潮らしいが、大多数の生徒は県立高校を第一志望に据える。
県立高校の入試は三月上旬。約半月後だ。この時期になると、校舎の三階にはどことなく緊迫した空気が漂う。
絵梨奈も縹西受けるよね、と言いかけたとき、僕は一つの可能性に思い当たった。
「あれ、もしかして絵梨奈、県立は……」
「うん。私、県立は受けない。蘇芳受かったからそっちに行く」
頭の中で、不協和音が鳴った気がした。
思い出したのは小六の冬、絵梨奈が次の発表会を最後にピアノを辞めると言ったあのとき。
けれど、あのときよりもさらに大きな喪失感。
階段を踏み外していないことを確かめる。動揺を隠せていただろうか。
蘇芳女子は難関中の難関だ。せっかく受かったのなら、そちらに進学するのはわかる。
しかし東京は遠い。僕も行ったことはあるが、地元からだと、新幹線を使っても三時間以上かかったはずだ。
どうやって通うのかと尋ねると、「東京におばあちゃん家があるから、そこから通うことにする」と絵梨奈。
「……差し支えなければでいいけど、なんで蘇芳を?」
「迷ったんだけどね。どうせならレベルの高いところをっていうのと、大学入試を考えると、あっちのほうがいい刺激がもらえるかなって。大学入試は全国規模になるからさ」
まだ高校にすら入る前だというのに、もう大学入試を見据えていたらしい。
このときの僕は大学のことなんて考えたこともなかったし、こうして目の前で言われても全然ピンとこなかった。
物理的にも精神的にも、絵梨奈が遠く離れてしまったように思えた。
ずっとそばにいたはずなのに、いつの間にか、手を伸ばしても届かなくなってしまった。そんな気がした。
僕は絵梨奈と、これからも一緒にいられると信じていた。信じていたかった。
けれど心のどこかでは、そんなことないとわかっていた。いつか別れる日が来るのだとわかっていた。
考えないようにしていただけだ。絵梨奈と離ればなれになることを。
考えたくなかっただけなのだ。絵梨奈が遠くに行ってしまうことを。
いつの間にか、僕が戻るべき教室を通り過ぎて、絵梨奈の教室の前まで来ていた。
「ごめんね」ドアの前で、絵梨奈が口を開く。「もっと早く言うべきだったかな」
「……いや、絵梨奈が謝ることじゃないよ」
そう。彼女が謝るような場面では決してない。
彼女は志望校に合格したのだ。僕としては喜んで祝ってあげるべきなのだ。
「こうなったらもう、僕も合格決めるしかないね」
僕の言葉に、そうだね、と頷く絵梨奈。
「湊なら大丈夫。受かるよ」
絵梨奈が僕を認めてくれているのが、せめてもの慰めだ。
あとは僕が県立入試で失敗しなければ、すべて丸く収まる。
彼女と離ればなれになることをまだ完全には受け入れられなかったが、ひとまず入試は突破しなければいけないと思った。
僕も本命の高校に受かることが、考えられる限り最良の結末だ。
「いい報告、待ってるから」
絵梨奈は軽く手を振って、教室の中へと姿を消した。
*
ある日の塾の帰り、僕は下見も兼ねて、受験する縹西高校から家までの道を歩いてみた。
学校説明会や文化祭で足を運んだことがあったので、ある程度の道は覚えていたが、完全に把握していたわけではない。
万が一道を間違えても迷子にならないよう、念を入れて複数のルートを確認することにした。
高校から住宅街へ続く線路沿いの道の向こう、家屋の建ち並ぶ一帯に、細い路地が伸びている。
そちらのほうへ足を踏み入れると、小さな空き地があった。
素通りしようとしたが、空き地の一角、雑草が茂る中に、点々と白いものが見えた。
もしやと思って近寄ってみると、それは僕のよく知る花だった。
頭を垂れるように咲く白い花。何度も見てきたから間違わない。
──スノウドロップ。
こんなところにも咲いているんだな。そんなありきたりな感想とともに、僕は、四月から遠く離れた場所に行ってしまう絵梨奈のことを思い浮かべた。
スノウドロップという花は主に寒冷な地域に生息するらしい。東京には咲かないかもしれない。
一つ、思いついたことがあった。
絵梨奈と交わす、ちょっとした約束だ。
卒業式の日、それを伝えようと決めた。
僕は携帯電話を取り出し、スノウドロップをカメラに収めた。
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