
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第8章
あの日の本番中のことは、よく覚えていない。
気がついたら演奏が終わっていた。
拍手を浴びて、たくさんの人から労いの言葉をもらってようやく、あぁ弾けたんだな、という実感が湧いてきた。
そして実感が湧いたからこそ、僕はやっと絵梨奈と話せると思ったし、今度こそ話さなければいけないと思った。
発表会の全プログラムが終わり、僕と絵梨奈と春子先生の三人は会場のロビーにいた。
僕たちが話していたのは、僕以外の生徒のことや先生たちの演奏のことなど、もっぱら発表会についてだった。
絵梨奈とはまだ少し目が合わせづらかったし、彼女もどこか気まずそうにしていた。学校の話題はお互い避けていた。
たぶん春子先生は僕たちの空気を察して、学校での近況や僕と絵梨奈の関係などについては触れないでくれていたのだろう。
「絵梨奈は、湊が弾いた『愛の夢 第三番』っていう曲は知ってた?」
どんなタイミングだったか、春子先生が絵梨奈に尋ねた。
「聴いたことはあったんですけど、詳しくは知らないです」と絵梨奈。
「おお、愛しうる限り愛せ」
春子先生が、昔聴いていた歌を思い出したかのように呟いた。
絵梨奈は首を傾げていた。
──おお、愛しうる限り愛せ。
僕には聞き慣れた言葉だった。
「リストの『愛の夢 第三番』はね、もともとは歌曲として書かれたものなんだ。『おお、愛しうる限り愛せ』っていうのは、その歌の冒頭の一節」
怪我が完治するまでの間、基礎練習をしていただけでなく、僕はリストのことや『愛の夢』のことを調べさせられた。春子先生からいろいろと話も聞かされた。
「『愛の夢』なんてタイトルだから誤解されやすいけど、これは恋愛を歌ったものじゃなくて、人間愛──つまり恋愛よりもっと普遍的な、友愛とか、慈しむ心を歌ったものだっていわれてるんだ」
そして春子先生が、今度は僕に言う。
「あの歌の歌詞ってさ、何々せよとか何々しなさいとか、そういう感じの言葉が多いのに、湊はそのメッセージを、誰かに届けるんじゃなくて、自分に言い聞かせるように弾いてたよね」
その言葉に、僕は「そうでしたか?」と返しそうになった。練習でもそんなふうに意識して弾いたことはなかった。
だけど。
「……あ、そうかもしれないです」
ぼんやりとしている本番中の記憶を手繰り寄せてみたら、思い当たる節があった。
本番中、音から見えた色の波は、客席ではなく僕自身に向いていたような気がする。
僕の指は、何かに取り憑かれたように鍵盤の上を動いていた。その何かにはたぶん、自分への戒めも込められていたかもしれない。
「『あなたに心を開く人を、悲しませてはなりません』だっけ」
春子先生が持ち出したのは、『愛の夢』の歌詞の一部分だった。
──あなたに心を開く者がいれば、その者のために尽くしなさい。
──どんなときもその者を喜ばせなさい。決して悲しませてはなりません。
たしかそんな感じの歌詞が、『愛の夢』にはあったはずだ。
だからこそ、絵梨奈が見に来ているこの場で、なんとしても弾かなければ、と思ったのだ。
「湊、言うべきことがあるでしょ」
春子先生の表情が変わったのを、僕は見逃さなかった。
僕を諫めるようでもあり、僕を慰めるようでもあった。
「たしかに例の件は、湊にも非がある。だけどそれは喧嘩をふっかけたことでも手を怪我したことでもなくて、絵梨奈に何も言わなかったことだからね」
言い終えたときには、春子先生は穏やかな表情に戻っていた。
「……わかってます」
「もう、私がいなくても大丈夫だよね」
「はい。ありがとうございます」
春子先生は僕にチャンスをくれたんだ、と思った。
「じゃあ、私はあっちに行ってくる」と言って春子先生は、ほかの生徒や保護者のところへ行ってしまった。
僕と絵梨奈は二人で向き合う形となった。
言いたいことはいくつもあったのに、言わなければいけないことはわかっているつもりなのに、こういうとき、言葉というのはなかなか出てこないものだ。
まだ彼女の顔を見ることは躊躇われた。
「『愛の夢』さ……」
慎重に切り出す僕に、絵梨奈が「うん?」と反応する。
「六年生のとき、絵梨奈が発表会でリストを弾いたのを見て、僕も最後の発表会ではリストを弾くって決めてたんだ」
「……そう、なんだ」
どう返したらいいか、というリアクションだった。
無理もない。これは僕が勝手に決めたことだ。僕としては大事なことではあったが、今は小さなことだった。
それに僕だって、「絵梨奈が弾いたからって、じゃあなんで自分もリストを弾こうと思ったの?」とか訊かれたら、上手く答えられないだろう。
今僕が言わなければいけないのは、そんなことじゃない。
「何かあったんでしょ」と春子先生に指摘されたあの日、僕はようやく気づかされた。
無意識のうちに、僕は自分だけ傷ついたつもりでいた。
けれど深く傷ついたのは、むしろ絵梨奈だったはずだ。
怪我したからどうとかピアノが弾けないからどうとか自分のクラス内での立ち位置がどうとか、そんなことを気にする前に、僕はまず絵梨奈に謝らなければならなかった。
「合唱コンクールのことだけど、あのとき、一人にしないって言っておきながら、勝手に怪我して、ピアノ弾けなくなって……。ごめん」
僕は絵梨奈に頭を下げた。
どのくらい下げたらいいのだろう。変に深く、あるいは長時間頭を下げていたら、かえってわざとらしく見えてしまうのではないだろうか。
誠心誠意向き合わなければならない場面、なのになのかだからこそなのか、そういうことが気になってしまう。
「……あの頃の湊は、自分以外すべて拒絶してるみたいだった」絵梨奈が口を開いた。
口調は穏やかだったが、僕には冷たい刃のように感じられた。
「合唱に参加しなくなって、私とも口きかなくなったし、目も合わせなくなったよね」
ここまで言われて僕は姿勢を戻したが、絵梨奈がどんな表情をしているのか、そこまでは怖くて確かめることができなかった。
「……寂しかった。指揮台に立ってどこを見ても、湊がいなかった。ピアノの向こうにも、歌ってる人の列の中にも」
『愛の夢』の一節が頭に浮かぶ。
──あなたに心を開く者がいれば、その者のために尽くしなさい。
心を開いてくれた絵梨奈に、僕は尽くさなければならなかった。
──どんなときもその者を喜ばせなさい。決して悲しませてはなりません。
彼女を喜ばせることができなかった。彼女を悲しませてしまった。
結局のところ僕は身勝手で、自分のことしか考えていなかったのだ。
「……言い訳にしか聞こえないかもしれないけどさ」
あの日の顛末を、春子先生に話したのと同じように、絵梨奈にも打ち明けた。
春子先生は、僕にも訴える権利はあると言ってくれた。なら、伝えるだけ伝えてみよう。
味方になってもらえなかったとしても、ヒーローじゃないと言われても、それは覚悟の上だ。
僕が話し終えても、絵梨奈はしばらくの間、何も言葉を発さなかった。
考えていることが読めない。何を今さら、と呆れかえっているのかもしれない。
正面から向き合わないといけないのだろうが、僕の視線は、彼女の首元や彼女の背後の壁などを行き来してしまっていた。
「……あの日のこと、初めて湊から聞いた」
やがて絵梨奈が、ぽつりと言った。
「許してくれとか、わかってほしいとは言わない」
「正直、許したくなかった」
「うん。本当に、ごめん」
「……だけど、私も悪かった。ごめんなさい」絵梨奈が頭を下げたのを見て、僕は呆気にとられしまった。「私も、湊のことを考えられてなかった。もっと湊に歩み寄るべきだったよね」
心の中で吹き荒んでいた雪が、ふいに止んだ気がした。
僕なんかがこんなこと言われてしまっていいのかな、と思った。
彼女が顔を上げたとき、僕たちはようやくお互いの顔を正面から見つめ合えた。
さて、春子先生に指摘された「言わなきゃいけないこと」は、これで終わりだ。
でも僕にはまだ──これは本当に個人的な話だったが──絵梨奈に言わなければならないことがあった。
「あのさ」僕は改めて切り出す。「もう一回、絵梨奈の指揮でピアノを弾かせてもらいたいんだけど……、ダメかな」
「……合唱コンクールで、ってこと?」
僕の急な提案に、絵梨奈はきょとんとした。それから、若干の躊躇いはあったものの「いいよ」と頷いてくれた。
「だけど、三年生で湊と別のクラスになったら?」絵梨奈が尋ねる。
「うん、そうなったら、合唱コンクールではもうできない」
僕たちが通っていた中学は一学年が四クラスあったので、翌年も同じクラスになる可能性は低いと思った。
だから合唱コンクールではなく、別の機会で。
「卒業式で卒業生合唱ってあるじゃん。姉さんが言ってたんだけど、あれの指揮と伴奏、合唱コンクールで、三年生で指揮者賞と伴奏者賞とった人がやるらしいんだよ」
ここまで言うと、絵梨奈も僕の言いたいことがわかったようだった。
「じゃあ私と湊で、指揮者賞と伴奏者賞をとろうってこと?」
「そう、卒業式の伴奏と指揮。あれやろうよ、僕らで!」
ずいぶん無茶な約束だな、と自分でも思う。
けれど絵梨奈は、迷うことなく了承してくれた。
「わかった。合唱コンクールのリベンジだね」
そう言って絵梨奈は右手を差し出してきた。
二年前、絵梨奈の最後の発表会のあともこんな感じだったな、なんて思った。
この日の絵梨奈は発表会用のドレスではなく私服姿だったが、それでも学校で見る制服姿や体操服姿よりはずっと特別に思えた。
絵梨奈は左利きだが、握手は利き手関係なく右手でするのがマナーなんだっけか。もっともこの場に限っては、もう怪我なんてするな、というメッセージも込められていたかもしれない。
僕は絵梨奈の手を握り返す。背は彼女のほうが高かったが、手は僕のほうが大きかった。
その手はとても繊細で柔らかくて、温かかった。
──果たせなかった約束を、もう一度。
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