
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第7章②
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「絵梨奈から『発表会いつですか?』ってメールが来たんだけど、湊教えてなかったの?」
二月も中盤に差しかかり、ピアノの発表会に向けた練習が佳境を迎えた頃、レッスンの終わりに春子先生に訊かれた。
「え? ……まあ、はい」と僕は曖昧に答えたが、否定はできなかった。
「やっぱり、ここんとこ絵梨奈とちゃんと話してないんでしょ」
図星だった。返す言葉が見つからなかった。
この頃には絵梨奈も僕も携帯電話を持ってはいたが、中学では携帯電話を学校に持ってくることは禁じられていた。
学校でしか会わなくなった僕たちに連絡先を交換するような機会はなく、二年生の終盤になってもお互いの連絡先は知らないままだった。
伝えるとしたら直接話すしか手段はなかったのだが、僕が右手を怪我した日以降あまり学校に行かなくなったこともあり、絵梨奈と話す機会はめっきり減ってしまっていた。
「目を合わせてくれて嬉しい」と言ってくれた絵梨奈の合図に、アイコンタクトを返せない。
「湊が伴奏で助かってる」と言ってくれた絵梨奈の指揮に、ピアノで応えることができない。
合唱のときだけは一人にしないと約束したのに、僕はピアノが弾けなくなってしまった。舞台上で絵梨奈を一人にしてしまった。
そんな罪悪感や後ろめたさから、次第に絵梨奈のことを避けるようになってしまっていた。同じクラスなのに、数カ月間まともに顔を見た記憶がない。
一人にしない、という約束を破った僕のことを、絵梨奈はどう思っただろう。
考えてもわからなかったし、尋ねることもできなかった。
一方で僕は、誰にも何も押しつけなかった。絵梨奈のためにやったんだとか、怪我したのにどうしてくれるとか、そんなことは一言も口にしなかった。
その点に関してだけは、僕はヒーローとしての面子を保てたのだ。
絵梨奈のために手を出したんだぞ、と主張するべきなのかもしれないが、僕は間違ってもそんなことは言ってはいけないと思っていた。
だから僕は何も話さなかった。もちろん、絵梨奈本人にも。
「完治したものを掘り返すようで悪いけど、怪我したのと関係あるんでしょ? 湊、あれから学校にもあんまり行ってないみたいじゃない」
右手を怪我したことについては、もちろん春子先生にも事情を訊かれた。あまり春子先生の口から聞くことのなかった厳しい口調で咎められた。怪我したあとの最初のレッスンのときだった。
僕は事のあらましは話したが、絵梨奈が傷つけられないように、という点は隠し通した。そのときは春子先生もそれ以上深く追及することはなかった。
「いや、だからあれは僕の自業自得で、カッとなって殴ろうとしたのが勢い余って窓にぶつかったんだって……」
「湊はついカッとなったくらいで殴りかかるような子じゃない」
春子先生の目が、まっすぐ僕を見据える。
「でもあのときは……」
「何かあったんでしょ?」
すかさず切り込んでくる。
しかしその言葉に鋭さはなく、だからこそ僕は心の内を見透かされた気がした。
僕が絵梨奈とずっと話していないと知ってからか、もしかするともっと前からか。とにかく春子先生は何かを察したのだろう。
僕は春子先生に打ち明けることにした。
いつかの理科の授業をクラスでボイコットしたことも、蒲田と喧嘩する少し前に絵梨奈と二人で話していたことも。
僕の話には誇張も混じっていたと思うが、春子先生は事実も感情もすべて受け止めてくれているようだった。
「……なるほどね」
僕の話を聞き終えた春子先生は、静かに頷いた。呆れられてさらに怒られることも覚悟していたが、それは免れそうだった。
「怪我したことを、今更とやかく責めたりはしない。要するに手段はどうあれ、湊はその蒲田くんから絵梨奈を守ろうとしたわけだ」
守れた、と自分で言ってしまうのは気が引けた。
冷静に考えてみたら、あのとき蒲田は絵梨奈に対しては結局何もしなかったはずだ。
アイツは絵梨奈の机をめちゃくちゃにすることもできなければ、教科書をゴミ箱に捨てることもできなかった。それだけでじゅうぶんだった。ざまあみろ、と思う。
「どうして今まで誰にも言わなかったの? 湊は絵梨奈の味方だったんでしょう? 絵梨奈にも、味方でいてほしかったんだよね?」
「……味方になってくれとか、僕は絵梨奈の味方だぞとか、そういうことは言っちゃいけないと思ったんです」
「今の話は絵梨奈にも言うべきだよ」
「でも、僕にそんなことを言う権利は……」
「あるよ」僕が濁した言葉を遮るように、春子先生は短く答えた。「きっと絵梨奈も、正義の押しつけだなんて思わないはずだよ」
僕はしばらく考え込んでしまった。
正義は認めてもらうものであって押しつけるものではない、というのが僕のヒーローとしての信条だった。
「わかった」春子先生が、行き詰まった会話の流れを変える。「今話してくれたこと、絵梨奈に伝えたくないなら伝えなくてもいい。私も黙っておく。でもさ、湊はほかに、絵梨奈に言わなきゃいけないことがあるんじゃない?」
そう言われて、僕はようやく気がついた。大切な、しかしごく当たり前なことに。
ここにきて、やっと少し冷静になることができたのかもしれない。
「学校で話しにくいなら発表会のときでいいから、ちゃんと話しなさい」
「……わかりました」
帰りがけ、春子先生の家の玄関先に咲いているスノウドロップが目に入った。
この花を眺めながら絵梨奈と言葉を交わしたことが、遠い昔のように思えた。
*
ギプスが外れたのは合唱コンクールが終わった翌週のことだった。
僕たちのクラスの合唱は、二年生どころか一年生と比べても酷いものだったらしいが、そんなことに関心はなかった。
右手にギプスをはめられてから、合唱のことなんてどうでもよくなってしまった。
怪我をしたとき、すでに三月のピアノの発表会で弾く曲は決めていた。譜読みを終え、そろそろ本格的に弾き始めようかという時期の怪我だった。
怪我が完治するまでは、練習時間の三分の二ほどは基礎練習に、残りは発表会の曲の左手だけを可能な限り弾くことに費やした。
結果的に、ギリギリではあったが曲を仕上げることができた。
そしてついにやってきた、発表会当日。
四月からは受験生だ。今回の発表会を最後に、僕もピアノ教室を退会する。
絵梨奈は約束どおり見に来てくれた。
彼女に見に来てほしくなかったわけがない。
見に来てくれて嬉しくなかったわけがない。
けれど本番直前に絵梨奈と会ったときには、僕は軽く挨拶をするくらいしかできなかった。
その場に居合わせていなかったとしても、あの昼休みのことを絵梨奈は誰かから聞いているはずだ。
絵梨奈は僕のことをどう思ったか。一度気になりだすと、それ以前からそもそも僕のことをどう思っていたのかというところまで疑いたくなってしまう。
顔を見たら冷たい視線を向けられるのではないか。目を合わせてくれないのではないか。
考えれば考えるほど、僕は何も言えなくなった。
会いたかった。だけど対面したくなかった。
せめて今日、この曲を弾き切るまでは。
ここでちゃんと弾けないと、本当に僕は絵梨奈に顔を合わせられなくなる気がした。
いよいよ僕の出番が始まる。
二年前に絵梨奈が経験した、「最後の発表会」という舞台。
最後だからって下手に気負う必要はない、とは春子先生にも言われた。
けれど今回の曲は、今まで弾いてきた中で間違いなく最高難度の曲だった。万が一本番で醜態を晒したらという不安も、ないわけではない。
もし最後の発表会で、音を外してしまったら? 譜面が頭から抜け落ちてしまったら?
……いや、大丈夫だ。そうならないために早い段階で曲を決めて、「失敗したくない」という一心で練習してきたんだ。
春子先生は僕を止めることはしなかった。怪我をしても曲を変えろとまでは言わなかった。
二年前、絵梨奈だってギリギリのところで曲を完成させたんだ。あとは僕が、ここで弾き切るだけだ。
──曲目は、リストの『愛の夢 第三番』。
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