
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第7章①
ヒーローという単語から僕がまず連想したのは、幼い頃にテレビで見た正義のヒーローだった。
幾多のピンチを乗り越え、ときには絶望の淵まで追いつめられながらも、最後には笑顔で人々を救う。そんな正義の味方。
彼らに共通していたのは、自らの善意や正しさの押しつけをしない、ということだ。
誰かを助けた代償として自分は大きな傷を負ったとしても、俺はこんなにボロボロになったのにとか、戦ったぶんの見返りをくれとか、そんなことは決して言わない。
何も言わずに人を助け、何も求めず去っていく。
それが僕の中の、理想のヒーロー像だった。
*
音楽の授業のあと絵梨奈と二人で教室に戻った、その日の昼休み。
ほかのクラスが合唱の練習をしているのが聞こえてきたが、僕のクラスには誰一人練習しようとする人はいなかった。
教室に残っていた人は少なかった。
絵梨奈もほかのクラスにでも行っていたのか、このときは教室にいなかった。
給食を終え、たまたま当番だった僕は後片づけのために教室を数分離れた。
当番の仕事を終えて戻ってくると、僕の机はひっくり返され、私物は床にばら撒かれていた。
またか、と思った。
僕のことをよく思わない奴は多いかもしれないが、こんなことをするのはクラスに一人しかいない。
蒲田だ。あいつには下手に抵抗しないほうがいい。ここでムキになってはいけない。
何も言わずに散らばったものを拾い集めていたら、何か足りないことに気がついた。音楽の教科書と合唱曲集だ。
教室前方に目をやると、蒲田がまさにその二冊をゴミ箱に突っ込んでいるところだった。
「返せっ」
「あぁ?」
走り寄ってきた僕を一瞥し、蒲田は埃を払い落とすように手を叩いた。
「なんだよ、せっかく一緒にしてやるっつーのによ!」
蒲田がそう言って向かったのは、廊下側の一番前。
絵梨奈の席だった。
「あっ、おい!」
彼が何をしようとしているのか、瞬時に悟ってしまった。けれど、この状況を打開できる策が思いつくわけではない。
「お前らムカつくんだよなぁ。先公みたいにクソ真面目でさぁ、うぜぇんだよ。一緒にゴミ箱ぶちこんでやるよ! ガリ勉同士、お似合いだろ?」
蒲田が、絵梨奈の机の中に手を伸ばす。
「おいやめろ!」
反射的に僕は蒲田に体当たりしていた。
僕は最悪どうなっても、何を言われてもいい。でも絵梨奈がコイツに痛めつけられるのは、それだけは御免だった。
「はぁ!? なにマジになっちゃってんのキモっ!」
彼は僕を軽くかわし、絵梨奈の机から距離をとった。
思わず手が出そうになる。
しかし手は駄目だ。そもそも人を殴ること自体いけないことだし、僕なんかでは彼に勝てるわけがない。
それだけではない。万が一指が折れたりでもしたら、ピアノが弾けなくなる。合唱コンクールの伴奏ができなくなる。それどころか、春先の発表会にも出られなくなるかもしれない。
──大丈夫、一人にしないよ。
絵梨奈と、ついさっき約束したばかりじゃないか。
「ヒーロー気取りか? そういうのがうぜぇって言ってんだよ!」
ヒーロー、という単語に、血が沸騰したように全身が熱くなった。
もう手を出さずにはいられなかった。
僕は右の拳を蒲田に出していた。彼はこれを難なく避ける。
空振った僕の右手が、窓枠に衝突した。
「……っ!」
「ハハッ! ダッセぇ! 自分で殴って自分で怪我してやがる!」
窓ガラスが割れることはなかったものの、窓の木枠を思い切り殴った右手は、その拍子に鍵の部分で引っかいたようで、小指と薬指の関節部分の皮膚が切れて血が流れていた。
それだけでなく、手首から小指のつけ根あたりには擦り傷や切り傷とは違う痛みがあった。
右手を動かそうとするたびに、体の内側が軋むようにズキズキと痛む。
「んだよっ!」
蹲りたくなるのを堪えて左手で反撃しようとしたが蒲田のほうが素早く、わずかに届かない。
そして彼の怒りにも火がついたようだった。
「あぁ? テメェやんのかコラ!」
ベタな脅し文句を吐きながら、僕の胸ぐらをつかんできた。
そのまま廊下に出て、されるがままの僕を壁に押しつけた。教室では暴れるには狭すぎると判断したのだろう。
頬、肩、腹に拳を、太腿に蹴りを入れられた。一撃一撃が重かったが、痛みに屈してはいけないと思った。
歯を食いしばって耐えた。しかし悲しいかな、僕は一矢報いることすらできなかった。
教室から廊下から、多くの視線が僕たちに集まっていた。
この場に絵梨奈がいなかったのはせめてもの救いだった。彼女にこんな無様な姿は見せられない。
蒲田が再び殴りかかろうかというとき、騒ぎを聞きつけた担任の男性教師が駆けつけてきた。彼が蒲田を僕から引き剥がす。
同時に、僕も別の先生に押さえつけられていた。例の理科教師だった。……よりにもよってコイツかよ。
「離せ! タバコ臭ぇんだよ近寄んな!」
僕はほぼ無意識で暴言を吐いていた。お前の助けなんかに頼ってたまるか、とばかりに理科教師に抵抗する。
しかしながら、ひ弱な中学生の僕が大の男相手に力で敵うはずがなかった。
蒲田にはさらにもう一人の男性教師が食らいつき、ようやく取り押さえたようだった。
僕は自分の非力さが悔しかった。
それから僕たちは、三人の先生を前に廊下に並んで立たされ、説教を食らった。
このとき何を訊かれたかはよく覚えていないが、蒲田のほうがいくぶん冷静に受け答えをしていたように思う。
ああそうだよこっちが悪かったよ。はいはいゴメンナサイ。頭に血が上っていた僕は、終始そんな口調で吐き捨てていた。
バカらしい、早く帰してくれ、とばかり僕は考えていた。何より、この場を絵梨奈に見られたくなかった。
「おい黒川、怪我してるじゃないか」
僕をなだめていた担任教師が言った。
足元を見ると、血が廊下に垂れていた。僕の右手の指から出たものだった。
「平気です」痛かったが、平然を装って僕は答えた。
「止血はしないと駄目だろ。あとのことは蒲田に聞いとくから、お前は保健室で診てもらえ」
言葉にそのまま従うのは屈辱的な気分だったが、結局僕は半ば強制的に保健室に連れて行かれることになった。まぁ、説教から解放されるなら別にいいか。
*
保健室で応急手当を受けた。右手の血は止まったが、まだ鈍い痛みがあった。
これは病院で診てもらったほうがいいという養護教諭の判断で、午後の授業は受けずに早退し、僕は病院に直行することになった。
診断の結果、右手の手首と小指のつけ根の、二カ所の骨にヒビが入っていたことがわかった。
ほかにも殴られたり蹴られたり打ちつけたりした箇所はあったが、右手だけ当たりどころが悪かったようだ。完全に自滅だった。
負傷したのが右手だったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。
もともとの利き手である右手よりも、今となっては左手が使えなくなるほうが生活に支障が出る。
一カ月ほどギプスをつけなくてはいけなくなった。
動かさなければ痛みはなかったが、その期間、もちろんピアノは弾けない。
合唱コンクールの伴奏は降板せざるをえなかった。
幸い僕と絵梨奈以外にもクラスにピアノを弾ける人はいて、伴奏の代役はすんなり見つかった。もっとも、練習期間が短かったため苦労はかけてしまったようで、そのことで僕はまた恨みを買うこととなったのだが。
それから僕は学校を休みがちになった。一日行っては三日休んで、みたいな日々を繰り返した。この頃には僕も塾に通っていたので、学校に行かなくても勉強はなんとかなった。
合唱の練習がある日はすべて休んだ。
合唱コンクール本番にも、この年は参加しなかった。
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