
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第6章
僕が通っていた中学では、毎年十月下旬に合唱コンクールが行われていた。
各クラスが合唱曲を一曲ずつ、そして伴奏者と指揮者を一人ずつ選出する。学年ごとに金賞、銀賞、銅賞が与えられ、それとは別に、各学年で優秀な伴奏および指揮をした生徒には、それぞれ伴奏者賞と指揮者賞が与えられるというものだ。
一学期の期末テストが終わり、夏休みを間近に控えたある日の、音楽の時間のことだ。
「じゃあまず、指揮やる人いませんか?」
音楽を担当する女性教師が、僕たちに尋ねた。
この日は、合唱コンクールで歌う曲と、指揮者および伴奏者を決めることになっていた。
合唱曲が決まり、続いて指揮者を決めようかという話になった。
けれど立候補する人はいなかった。次第にクラスがざわつき始める。
周囲から聞こえてくる声は、話し合うというより面倒ごとの押しつけ合いに近かった。
するとどこかから、「白川さんにやらせちゃえばよくない?」という声が聞こえてきた。
この一言をきっかけに、絵梨奈に指揮を押しつける空気ができあがっていった。
当の絵梨奈は困ったような反応を示していたが、次第にクラスメイトたちに押され、指揮者に手を挙げることになった。
「はい、では指揮は白川さん、お願いね」
先生の言葉に、絵梨奈は頷いた。その反応がやや不本意そうだったのは、気のせいだろうか。
「それでは最後に、伴奏やる人?」先生が再び尋ねた。
放っておいても、これは僕に押しつけられるだろうな、とは思った。現に僕は一年のときに伴奏者賞をとっていた。
だったら、さっさと決めてしまおう。もとより歌うことはあまり得意ではない。伴奏に逃げられるのなら好都合だった。
それに、絵梨奈の指揮で弾けるならなおさらだ。
絵梨奈の指揮でピアノを弾く。このポジションをほかの人に奪われたくなかった。
「あ、僕やります」僕は自ら手を挙げた。
僕の立候補に異を唱える人はおらず、そのまま僕が伴奏者に決定した。
「それじゃあ改めて、指揮は白川さん、伴奏は黒川くん、よろしくお願いしますね」と先生。
絵梨奈がこちらを振り返った。僕は、大丈夫だよ、というふうに目配せをする。
絵梨奈の表情がほんの少しやわらいだように見えた。
伴奏が僕であることが、少しでも絵梨奈の指揮のモチベーションにつながるのであれば幸いだ。
そう、僕は絵梨奈のヒーローなのだ。
*
中学に上がって以降、ピアノはというと、早い話が春子先生とのマンツーマンのレッスンとなった。絵梨奈が辞めたあとに新しく入ってくる生徒はいなかったので、そのまま一人で習うことになったのだ。
小六の最後に聴いた絵梨奈の演奏が少なからず刺激になったのだろう。自分で言うのもなんだが、たぶん小学生の頃より僕は真剣に練習に取り組むようになったと思うし、自分の演奏から見える色も、より鮮やかで多様なものになっていた。
合唱曲の伴奏もさほど苦労することもなく、夏休みの個人的な練習だけでほぼ弾けるようになった。
あとは指揮と歌に合わせられれば何も問題はなかった。
合唱コンクール本番まで一カ月を切ると、中には朝や昼休みに自主的に練習しているクラスもあった。隣のクラスなんかは本気で金賞を獲りにきているという噂もある。
だが、僕たちのクラスはとてもそんな状況にはならなかった。
そんなある日の四時間目、音楽の時間だった。
二学期に入ると、音楽の時間はすべて合唱コンクールに向けた練習にあてられた。
授業の前半は男子と女子に分かれ、パート練習をしていた。
パート練習の際は、女子は先生のピアノ伴奏に、男子は僕が弾く電子ピアノの伴奏に合わせて練習することになっていた。男子は、電子ピアノを弾く僕を囲むように並ぶ形となる。
普段は授業に、特に音楽にはほとんど顔を出さない蒲田が、この日は珍しく出席していた。
クラス一の問題児である彼は、当然合唱の練習になんて微塵もやる気を示さない。
そして蒲田がいると、ほかの男子たちも彼に合わせて僕の伴奏の邪魔をしたり、馬鹿みたいな声量とめちゃくちゃな音程で歌ったりするなど、いつも以上に手を抜くようなる。
「ちゃんと歌ってよ」「いつまで経っても進まないじゃん」「本番近いんだからさ」などと僕が注意しても、まるで暖簾に腕押しだ。
「そういう黒川は歌ってねーじゃんかよ! 歌えよ、俺がピアノ弾いてやっからよ!」
そう言って蒲田は僕を突き飛ばし、伴奏でもなんでもない騒音を鳴らし始める始末だ。
ほかのクラスメイトも誰一人僕の味方をしようとせず、ある者は蒲田と一緒になってゲラゲラ笑い、またある者は傍観を決め込んでいた。
見ていられなかった。こんな歌からは、薄汚い泥のような色しか見えてこない。
騒ぎを見かねた先生がたまに注意に入ると、蒲田は僕から離れ、真面目に練習しているようなそぶりだけ見せる。
そして一応真面目なまとめ役ということになっている僕に先生は、あなたがもっとしっかりまとめなさいと苦言を呈してくる。
言いたいことはいくつもあったが、僕は何も言い返せなかった。
心の奥底では、たぶん僕も彼らを同じことを思っていた。
合唱なんてどうでもいい。真面目にやるなんてバカじゃないか。そもそも僕は歌うわけではないのに、ちゃんと歌えと注意するのも変な話だ。彼らにしても、歌いもしない奴に歌えと言われることに腹を立てていた部分も、多かれ少なかれあっただろう。
しかしそんな態度を見せてはいけないということを、僕はわかっていた。僕は彼らと同じ立場になってはいけない、という空気を察していた。先生にも怒られるだろうし、何より指揮を務める絵梨奈を裏切ることになると思った。
結局この日もほとんどまともに歌うことができないまま、パート練習の時間が過ぎた。
じゃあ全体で合わせましょう、と先生が集合をかけたので、僕は今度は音楽室のグランドピアノの前に腰かける。
このときを待っていた。
先生の目があるので、あからさまに和を乱そうとする人はいない。仮に誰かがふざけだしたとしても、僕が責められることはない。パート練習に比べると、はるかに気が楽だった。
だが僕が楽しみにしていたのは、そんな理由ではない。
クラスメイトが僕を背に並んでいる。
その向こう側、絵梨奈の姿が見える。
彼女の左手が挙がる。僕と目が合う。
──心臓が、とくん、と高鳴った。
僕が小さく頷くと、絵梨奈が腕を振り始める。
その合図で僕が最初の一音を鳴らし、曲が始まる。
わずかにピアノのほうを向いていた絵梨奈の体が正面を向くと、人によって温度差が激しい女子も、全体的にやる気のなかった男子も、なんやかんやで歌いだす。
部分練習を数回、それから全体を通しで二回ほど歌う。
週に一度、時間にすればほんの十数分。春子先生のピアノ教室よりもずっと短い時間だけど。
絵梨奈ならこの部分では青みがかった緑色を奏でるだろうか。腕を大きく振ったら、次の小節からは赤や黄色が出るように弾いてみよう。
言葉を交わさなくても、手にとるようにわかる気がした。
絵梨奈は上体をかすかに前に傾け、ソプラノを、アルトを、男声を導いている。指揮を振りながら自身もソプラノパートを歌っていた。小さく弾むような独特のリズムのとり方には、どことなく春子先生の姿も重なる。
僕の体も自然に揺れ、手首は調子のよい滑らかさで動いていた。
クラスのためにとか、そんなの正直どうでもいい。合唱の出来がどうあれ知ったことではない。歌声から見える色なんて薄汚くても構わない。
絵梨奈の指揮でピアノが弾ければ、僕はそれでいい。
指揮と伴奏の、これは決して綺麗な対話ではないかもしれない。僕が一方的に従っているだけかもしれないが、それでよかった。
絵梨奈と目が合い、彼女のテンポに合わせてピアノを弾く。
ろくでもない合唱練習の時間の、ささやかな楽しみだった。
*
授業終了のチャイムのあと、指揮と伴奏について軽く指導があった僕と絵梨奈は、少し遅れて教室に戻ることになった。
音楽室は第二校舎にあり、そこから連絡通路を通って教室がある第一校舎に戻ることになる。
第二校舎の薄暗い廊下を二人で歩く。
授業のあとのこの数分間は、できればゆっくり歩きたい時間だった。
「伴奏、すごく助かってる」
「いや、こちらこそ。あんな伴奏でよければ」
絵梨奈と二人だけになるとやはりどこか緊張するというか、ちゃんと喋れているだろうかと気になってしまう。
「始まるときに私がピアノを見るとさ、湊はいつもこっちに合図をくれるよね。あれが嬉しい」
僕も嬉しくなった。こんな言葉が返ってくるとは思っていなくて、思わず言葉に詰まった。
「どんなに歌がめちゃくちゃでも、湊だけは目を合わせてくれるし、私の指揮に応えてくれる。一人じゃないって思える」
──あぁ、そうか。
いつかの理科の一件以来、絵梨奈もクラスで腫れもの扱いされるようになった。
絵梨奈にとっても、クラスは居心地のいい場所ではなくなっていた。
「ピアノが湊でよかった」
ゴミの掃き溜めみたいな場所にいる僕たちだけど、合唱のときだけは、二人だけの時間に浸れるんだ。
「……大丈夫、一人にしないよ」
頭に浮かんだ言葉を振り絞ったが、鼻につくようなものじゃなかっただろうか。僕は絵梨奈のヒーローになれているだろうか。
絵梨奈の顔に視線を向ける。目が合った。彼女は優しく微笑んだ。
「ありがとう。本番もよろしくね」
「うん、よろしく」
目を合わせることが、ピアノで応えることが、絵梨奈にとって少しでも慰めになるのなら──
しかしこの約束を、僕は自ら反故にすることになるのだった。
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