
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第5章
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ヒーローと言われたからといって、すぐ僕の中で何かが変わったわけではなかった。
強いて言うなら、リストを弾きたいと春子先生に伝えたら、練習が以前より数段厳しくなったくらいだろうか。ことあるごとに絵梨奈を助けたわけでも、これといって他人に優しくなったわけでもない。
そんな自分を悔やんだのは、中学二年のあの日のことだ。
中学三年間の中では唯一、二年のときに絵梨奈と同じクラスになった。
中二のクラスは、一言で振り返るならば、最悪のクラスだった。
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スクールカースト、という言葉を知ったのはだいぶ年月が過ぎてからのことだ。僕が中学生だった頃には、そんな言葉自体そもそもまだ知られていなかったと思う。
ほかの生徒から人気があり、コミュニケーション能力があり、クラスで目立っている。そんな生徒がカーストの上位に位置づけられる。下位はその逆だ。
スクールカーストという言葉を使って端的に言ってしまうならば、絵梨奈はスクールカーストの上位で僕はその下位にいた。
中学に入っても、絵梨奈は常に学年トップの成績をキープする優等生だった。
けれど絵梨奈が纏う佇まいや空気みたいなものは、同じカースト上位の女子たちがもつそれとは異なる気がした。カースト上位にいるような女子たちと比べると絵梨奈はだいぶおとなしいし、そもそもカースト上位に成績優秀な生徒は少ないのだ。
たとえるならば、雲一つない晴れ空の下で陰を帯びているような。あるいは、色鮮やかな花が咲く花畑に無色の花が一輪覗いているような。
周囲と異なるものをもちながら、しかし彼女は非常にうまく溶け込んでいたように思う。
同時に、ちょっとしたことで壊れてしまいそうな危うさも漂わせていた。
僕は逆に、溶け込むことが異常に下手だった。
だからだろう。小学校時代からそうだったが、僕はまず絵梨奈の真似をするような人間だった。
優秀な絵梨奈に置いていかれないようにしていたら、僕も気がつけば学年トップの成績を収められるようになっていた。僕と絵梨奈で学年一位と二位、なんてことも一度や二度ではなかった。
そして絵梨奈を模倣することに飽き足らず、いろいろな人の言動を模倣するようになった。この場面であの人ならこう言うだろうとか、ここでこういう行動に出たらあの人は怒るだろうとか、そんな具合だ。
自分でオリジナルの答えを出すのではなく、誰かが正解とするであろう選択肢を選ぶのだ。僕の感性は自分の中で成熟するより先に、他人のそれにすっかり染まっていた。
僕の行動には一貫性がないとか、まるで筋が通っていないとか言われたことがある。
当然だ。僕の「感性のようなもの」は、「絵梨奈をはじめとする様々な人の思想の寄せ集め」でしかないのだから。
*
田舎の中学ともなると、ことあるごとに問題を起こすような、いわゆる不良と呼ばれる輩がクラスに一人はいるものだ。
僕のクラスでは、
授業にはろくに出席せず、学校でガムを噛んだりタバコを吸ったり、気に入らない生徒をいじめたり、それを見咎めた先生たちにも殴りかかったり、さらには他校の生徒とも派手に喧嘩したり、およそ中学生が扱う範疇を超えた額の金銭取引をしたりもしていたらしい。
要するに、クラスでは誰も彼に逆らえない。暗黙のカースト最上位。そんな奴だ。
蒲田とは小学校は別だったし一年のときのクラスも違ったので、それまではほぼ面識はなかった。けれど二年生に上がると、彼は始業式の日から何かと僕に目をつけてきた。きっかけは今でもよくわからない。
中学二年生になって一カ月余り。クラス内の友人同士のグループが固まり、カーストの序列も浮き彫りになってくる頃だ。
「今日の理科の授業、クラス全員でバックレようぜ」
蒲田ともう一人、彼とよくつるんでいる
その日の理科の授業は、理科室で実験をすることになっていた。
僕たちのクラスの理科を担当していたのは、授業がわかりづらいうえに細かいことですぐ目くじらを立てるということで生徒からも悪評高い男性教師だった。
もちろん不良からはとりわけ嫌われている。憎たらしい教師の授業を集団でボイコットしてやれ、というわけだ。
この提案に誰も反論する者はいなかった。
彼らに反発しようものなら、クラスに居場所はなくなる。それが暗黙の了解だった。
問題の理科の時間になった。
先生は僕たちが理科室に移動してくるものだと思っているので、教室には来ない。
僕たちはというと、誰一人として教室を出ることはなかった。僕はもちろん、絵梨奈も教室を離れるそぶりは見せなかった。
外からはあくまで僕たちは教室にいないと見せかけるためか、ドアと窓は閉め切り、ご丁寧に電気まですべて消していた。
僕もこのときは、理科室に行くよりも蒲田と佐橋に従っていることが正しいのだと、自分に言い聞かせていた。
絵梨奈も空気が読めないわけでは決してない。現にこのときは席を立たず、集団ボイコットに加担している。それでいい、と僕は思った。
ただ、空気を読む力という点では良くも悪くも彼女は僕より劣っていたといえるかもしれない。
いつかの「雪が溶けると何になる」という問題のときもそうだったが、「自分が正しいと思うもの」と「その場において正しいとされるであろうもの」が異なる場合、僕は後者を選んでいた。一方で絵梨奈は、ときおり前者を選ぶことがあった。
そのわずかな違いはこの日、決定的なものとなって表れたのだった。
ひそひそ話ほどの声量だったのが次第に大きくなり、授業開始のチャイムから十五分が経過する頃には、教室の中は休み時間と変わらないやかましさになっていた。蒲田や佐橋をはじめとする一部の連中は、ざまあみろとも言わんばかりのしたり顔で笑っている。
僕は誰と話すでもなく、そんなクラスの様子を傍観していた。
そんなとき、教室の前のドアが勢いよく開いた。
「お前ら何やってんだ!」
理科の先生が血相を変えて教室にやってきた。
「何考えてんだ」とか「あれだけ連絡しておいただろう」とか「なめてんのか」とか「ふざけんじゃねぇ」とか「真剣に勉強する気があるのか」とか「そんなんじゃどこの高校にも行けないぞ」などといった説教が始まる。しまいには日頃の授業態度や生活態度の不満まで口にする始末だ。
全員が席に着き、教室は静まり返っていた。先生が一言発するたびに、どんどん空気は重くなっていった。
しかし誰一人として聞く耳をもっていなかったことは、叱っていた当の本人以外は誰もが悟っていただろう。
想定内だな、と僕は思った。僕だけじゃない。クラスの誰もがこうなることは想定していたに違いない。むしろ蒲田などは腹の中で思いっきり嘲笑っていたのではないだろうか。
「お前らがやる気を出すまで授業しないからな! もういい、やる気がある奴だけ理科室に来い!」
ひととおり説教を垂れたあとでそう言い残すと、先生は教室を出ていった。
しかし沈黙に包まれていたのは一瞬で、徐々に「見た? 出てくときのあいつの顔」「結局授業やらねーのかよ」「この流れで誰がテメーの授業なんか受けるかよ」などという言葉がどこからともなく聞こえてくるようになった。
そんなとき、クラスの最前列の席の一つが、ガタッと動いた。
絵梨奈だった。
教科書とノートと筆記用具を手に持ち、立ち上がっていた。先生の言葉で、誰かは動くと思ったのだろう。あるいは一番前にいたから、後ろのほうの様子を感じとるのが一瞬遅れたのかもしれない。
僕は血の気が引くのを感じた。
クラス全員の視線が絵梨奈に集まる。「は?」「エリ、何やってんの?」などと、誰からともなく非難の声が上がる。
そのときのクラスの空気と絵梨奈の表情は、今でも思い出したくない。
結局絵梨奈も理科室に行かず、その日の理科の授業は誰も出席することなく終わった。次の理科の時間は大半が先生の説教で消えたが、そんなことはどうでもいい。
翌日から、クラスメイトの絵梨奈への態度はあからさまに変わっていた。おそらく佐橋が女子たちに根回ししたのだろう。
授業以外の時間に教室で絵梨奈の姿を見かけることが少なくなった。ほかのクラスに彼女と仲のいい友人がいたのが幸いだった。絵梨奈は休み時間になるといつもその友人のところへ行っていた。
僕も絵梨奈もきっと空虚な存在で、自分というものが極めて希薄なのだ。だからこそ大人たちの考えもすんなりと受け入れ、その結果羽目を外しすぎることもなく学業でも好成績を収めることができたのだと思う。
けれど本質的な部分は違ったのだ。
思うに、自己が希薄とか空虚とかいうのには二つのタイプがある。
本当に個性が無色なタイプと、雑多なものに染められて塗り潰されて本来の自分の色を見失った真っ黒なタイプの二つだ。
彼女の希薄は何物にも染まらないがゆえの白さで、僕の空虚はいろんなものに染まりすぎたがゆえの黒さだ。
彼女は空気を読めないわけではないが、周囲に染められてしまったわけでもない。だから、ほんの少し空気に綻びができたときに、周囲を判断基準にせず、自分の意志で動いたのだ。
このときはそれが裏目に出た。
絵梨奈はその白さゆえに、スクールカーストの下位に転落させられてしまったのだ。
*
あとになって僕は、なんてことをしてしまったんだろう、と後悔した。
考えるまでもなかった。道徳的に正しいことをしたのは絵梨奈だった。それなのに、周囲の目を気にして、僕は何もできなかった。
──あの場で絵梨奈をかばうことができないで、何がヒーローだ。
この一件で改めて、僕は絵梨奈からもらった「ヒーロー」という言葉を意識するようになった。
誰も絵梨奈を信じなくても、僕だけは絵梨奈が正しいと言えるようにならなければ。
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