
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第3章
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スノウドロップは、今でも僕にとって思い出の花だ。
絵梨奈と出会った日に二人で見ていたから、というのももちろんあるが、この花についてはもう一つ印象深い出来事がある。
それは小学校卒業を間近に控えた、十二歳の二月のことだった。
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僕たちが通っていたピアノ教室では、毎年三月に発表会があった。
二月に入るとレッスンの残り回数も少なくなり、練習はいよいよ大詰めという段階になってくる。
僕の曲についてはおおかた仕上がる目処が立っていた。
感覚的な言い方をすれば、これだ、と思える色が見えつつあった。
絵梨奈と出会ってから、僕は自分の演奏にも鮮やかな色が見えるようになった。
練習を始めてすぐの頃は、絵の具のチューブからそのまま出したような単一の色しか見えない場合がほとんどだ。しかし、弾けるようになるにつれて色の彩度が高くなったり陰影がはっきりしたり、さらには幾何学的な模様が浮かんできたりする。
仕上げとして弾き方を微妙に変えることで色や形を変化させ、最終的に一つのアートを作っていく。そういったイメージで僕はピアノを弾いていた。
そして絵梨奈は、いつも僕の半歩先を歩いていた。彼女に見放されたくなかった。肩を並べていたかった。
ピアノだけでなく勉強や運動もできる優等生だった。けれど決して自慢したり驕ったりすることはなく、そんなところも尊敬できる点だった。
そんな絵梨奈が、この年の発表会で弾く曲に限っては苦戦していた。
彼女が一つの曲にここまで手こずるのは信じられなかったし、見ていて痛ましい気持ちにさえなった。
彼女が選んだ曲は、『コンソレーション第三番』。
超人的な腕前から「ピアノの魔術師」と称された、フランツ・リストが作った曲だ。リストの楽曲は非常に高度な演奏技術を要するものが多いことで知られるが、この『コンソレーション第三番』は比較的簡単といわれているそうだ。
とはいえ、この頃の僕や絵梨奈には難易度の高い曲だった。
ゆったりと落ち着いた雰囲気のある、どこか儚げな曲。甘美なメロディを右手が奏で、左手で弾く連符がそれを優しく支える。何オクターブも激しく動くわけではないが、それでも指は相当使う。絵梨奈が持っていた楽譜を少しだけ見たことがあるが、頭が痛くなりそうな連符の数だった。
決して絵梨奈の苦手なタイプの曲ではなかったが、練習は難航した。
レッスンのたびに、少しずつだが弾けるようにはなっていた。春子先生も熱心に指導してくれていた。しかし、このままのペースでは本番までに仕上がるかどうか微妙なところだった。
「右手に和音が入ると、まだちょっと固くなっちゃうね。左手はよく動いてるから、いったん右手だけで、一音一音たっぷり聴かせるように意識して弾いてみようか」
そう言って春子先生がお手本を弾いてみせ、絵梨奈が続いて同じ箇所を弾く。
「うん、その感覚。もう一回やってみよう」
赤が淡いピンクに、紺色が薄い水色に。絵梨奈の演奏から浮かんでいた色が、だんだんと柔らかく明るい色になってきた。
しかし両手で弾いてみると、左手の音の色と右手の音の色がお互いに邪魔し合って、濁った色が生まれてしまう。かと思うと、曲の中盤くらいから、ぽつぽつと色が消えていく。浮かび上がっていた色の膜が、曲が終わる頃には穴だらけになってしまっていた。
*
レッスンを終えて外に出た。
冷たい風が僕たちに吹きつけてくる。少しではあるが雪も降っていた。
玄関先の花壇には、今年もスノウドロップが顔を出していた。
今までなら花が咲き始めるとすぐに絵梨奈は花壇を覗き込んでいたが、この年はそうではなかった。曲がうまく弾けないことを引きずっているようだった。
「私の『コンソレーション』、どうだった?」自信なさげに絵梨奈が尋ねる。「どうすれば弾けるようになるのか、どう表現すればいいのか、まだよく掴めてなくて……」
彼女からこのようなことを訊かれるなんてめったにないので、僕は戸惑ってしまった。
「湊には、どんな色が見えた?」絵梨奈が質問を変える。
僕はひとまず、見えた印象を伝えることにした。
「全体的に明るい感じにはなってきたかな。でもときどき赤と緑とか、なんかバランスの悪い色が出てきたり、急に色が消えちゃったりすることがある」
抽象的な言葉でしか説明できないのがもどかしい。
「そ、そっか……」困ったような表情で俯く絵梨奈。
僕は「何色を出したいの?」とか「この色を抑えるように」などと言ってしまいたくなったが、そんなアドバイスをしたところで絵梨奈をよけい困らせてしまうだけだ。
代わりに、無難そうな言葉を探す。
「やっぱり、ちょっと難しすぎたんじゃない?」
「でも……」
「さすがに今から曲の変更は無理だとしてもさ、ほら、先生にお願いして、ちょっと簡単にアレンジしてもらうとか」
絵梨奈は黙ってしまった。
当然の反応だとは思ったが、僕としては絵梨奈に少しでも恥ずかしくない演奏をしてほしかったし、本番で演奏が止まってしまうよりはずっといいと思った。まして発表会はコンクールではないのだ。高難度の曲にあえて挑戦するメリットはあまりない。
「……私ね、これが最後なんだ」
ぽつりと絵梨奈が言った。
「最後?」
「うん。今度の発表会を最後に、ピアノは辞める」
「えっ、辞める……?」
頭の中で、不協和音が鳴った気がした。
うっかり指が滑って隣の鍵盤を押さえてしまったような、些細といえば些細な不協和音。
「ごめんなさい。春子先生にはもう伝えたんだけどね。湊にも、隠してたわけじゃなくて、いつか言おうと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて……」
絵梨奈の言葉に、僕は「そうなんだ」と返すのがやっとだった。なるべく平静を装おうとしたが、動揺を隠し切れた自信はない。
僕の二歳年上の姉もピアノを習っていて、受験生になるからという理由で三月いっぱいで辞めることになっていた。
姉と同じく、僕も中学二年生までは続けるつもりだった。絵梨奈もそのくらいは続けるものだと思い込んでいた。
「ピアノは小学校を卒業するまで、っていうのは、ずいぶん前から決めてた。中学行ったら部活もあるし、塾にも通うつもりだから」
でもそれは僕だって──。言おうと思ったが、彼女の選択について口を挟む権利は僕にはないだろう。
「最後の発表会、妥協はしたくないの」
絵梨奈がそう言ったとき、ちょうど彼女のお母さんの迎えの車がやってきた。
「……じゃあ、私帰るね」
足早に去っていく絵梨奈に、僕は手を振ることすらできないでいた。
妥協はしたくない。その言葉には力がこもっていて、僕にはそれが僕に対する拒絶のようにも感じられた。
後悔した。絵梨奈のことを思うなら、多少根拠に乏しくても背中を押す言葉をかけるべきだった。難しい曲にもかかわらず、彼女は最後の発表会に向けて全力で練習していたのだ。
色が見える、という感覚は絵梨奈には理解できないだろう。彼女自身もそれは承知しているに違いない。それなのに僕に尋ねたのは、少しでも気休めがほしかったからか、ともすると藁にも縋る思いだったのか。
いずれにせよ、僕は酷いことを言ってしまった気がしてならなかった。
*
次の日の放課後、僕は学校の図書室にいた。
せめてもの罪滅ぼしになればと、リストの『コンソレーション』について調べてみることにしたのだ。
自分の曲の練習もあるので、さすがに実際に弾くことは難しい。けれど、曲のことを少しでもいいから知っておきたかった。絵梨奈が左利きであると知って自分も左利きになろうとした、あの感覚に近かった。
クラシック音楽や作曲家について書かれた本を何冊か開いてみる。
フランツ・リストの『コンソレーション』は、全六曲からなる小品集。絵梨奈が弾くのは第三番で、これが最も有名な一曲だ。このあたりのことは春子先生が話していたので僕も知っていた。
もう少し読み進めてみる。周囲から認められない恋をしていたリストは、交際相手からの勧めで作曲に没頭。『コンソレーション』はその頃に生まれたそうだ。リストの切ない感情が表れている作品として現代まで愛されているという。ちなみに「コンソレーション」とは、英語で「慰め」の意味らしい。
ここまで調べたところで、僕は本を棚に戻した。
曲について知ったのはいい。けれど、そうしたところで絵梨奈の助けになるのだろうか。それに絵梨奈だって、これくらいのことは知っていてもおかしくない。冷静になってみると、こんなことをしてもしょせん自己満足にしかならない気がした。
ため息をついて、窓の外に目をやった。
外では粉雪が舞っていた。
僕はふと、昨日見たスノウドロップの花を連想した。
絵梨奈と出会った日に咲いていた、僕にとっては思い出深い花。春子先生が育てていたので毎年見てはいたが、そういえば詳しいことはあまり知らなかった。
今度は図鑑が並ぶ棚の前に足を運んだ。
その中から一冊、植物図鑑を取り出して、スノウドロップについて書かれたページを開いた。
──スノウドロップ、別名、待雪草。
寒い時期に芽を出し、二月から三月頃に花を咲かせる。家庭で育てることもさほど難しくはないらしい。
古い神話の中で天使が冷たい雪をスノウドロップの花に変えたとか、また別の伝説では無色透明だった雪にスノウドロップが色を与えたとか、そんな逸話まであるようだ。
そして「花言葉」の項目を見たとき、僕ははっとした。
別にどうということはない、ただの偶然だ。けれど、とてもよくできた偶然だった。
悩んでいた絵梨奈に向けて、明確な答えにはならないにしても、ヒントにはなるかもしれない。これを伝えない手はないと直感したのだった。
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