
──雪どけの花が開く頃、僕の目に映る音は何色だろうか?
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◆ 第2章
四月になり、僕は小学校に入学した。
入学式の日、新入生はまず教室に集合、保護者は先に体育館で待機することになっていた。廊下で母と別れた僕は一人、自分の教室に足を踏み入れた。
自分の席について、教室内を見回してみる。
当然といえば当然だが、まわりは知らない先生に知らないクラスメイトたち。初めての場所で見ず知らずの人に囲まれた僕は、寂しくて泣きべそをかいていた。
「……湊?」
僕が自分の席で俯いて泣いていると、隣の席から聞き覚えのある声が聞こえた。
「……え、絵梨奈?」
顔を上げると、そこにいたのは白川絵梨奈だった。
「湊、同じクラスだね。しかも隣同士。一年間、学校でもよろしくね」
「う、うん。よろしく」
先月から一緒にピアノを習うことになった女の子と、隣同士の席。漫画みたいな展開に、僕は驚きと喜びが混ざったような気持ちになった。涙はいつの間にか乾いていた。
*
「ゆきが とけると なにになりますか」
あれは何の教科のテストだっただろうか。小学校でこのような問いを出されたことがある。
僕は問題を見た瞬間、「おっ」と思った。春子先生が言っていた言葉を思い出した。
──雪が溶けるとね、春になるんだ。
僕は「はるになる」と書いた。
絵梨奈も同じ答えを書くだろうと思った。
ひととおり問題を解き終わってもまだ時間があったので、僕は「ゆきが とけると なにになりますか」を改めて考えてみた。
あのとき、絵梨奈は「水になる」と言っていた。
普通に考えれば、たしかに雪が溶けたら水になる。
「雪が溶けると春になる」というのは、春子先生のちょっとした遊び心というか、詩的な言い回しだ。現に僕は、ひっかけ問題だと思った。
やっぱり、「水になる」という答えが正解なんじゃないか。もしかしたら、絵梨奈もそう書いているんじゃないか。
僕は「はるになる」という答えを消して、小さく「みずになる」と書いた。
後日、返却された答案を見ると、「みずになる」と書いたところにはマルがついていた。どうやら、「水」で正解だったらしい。
しかし僕は、当たったのになんだか喜べないような、間違った答えを正解だと言われたような、複雑な気持ちになった。
放課後、絵梨奈がテスト用紙を持って教卓で担任の先生と何やら話をしていた。
どうやら絵梨奈は、あの問題で「はるになる」と答えていたらしい。
その日はちょうどピアノのレッスンがあった。
レッスンが終わると、絵梨奈は春子先生に疑問をぶつけていた。
「春子先生、雪が溶けたら春になるんじゃないんですか?」
「どうしたの絵梨奈」
絵梨奈は、テストで「雪が溶けると何になりますか」という問題が出たこと、その問題に「はるになる」と答えたらバツをつけられたことを話した。
「あっはは、そうかそうか。そりゃあ、テストでその問題が出されたら、『水になる』が正解かもねぇ」苦笑いを浮かべる春子先生。
「春子先生……」
絵梨奈が唇を尖らせると、春子先生は今度は真面目な顔になった。
「テストっていうものでは、点数をつけなくちゃいけない。だから点数を決めやすくするために、あらかじめこれが正しいっていう答えを決めてる。その答えっていうのは、あくまで模範的、常識的なものだ。みんなが納得いくような答えじゃないと、怒られちゃうからね」
「似たようなこと、担任の先生も言ってました」と相槌を打つ絵梨奈。
「だけどね、答えっていうのはたいていの場合、一つじゃないものなんだ。そのテストではたまたま『水になる』が正解だったみたいだけど、私は『水になる』でも『春になる』でも、どっちも正しいと思う。もちろん、『水』でも『春』でもない、ほかの答えだってあっていいと思ってる」
諫めるでもたしなめるでもなく、優しくなだめるように言い聞かせている春子先生。絵梨奈はそんな春子先生の話に、いつの間にか真剣に耳を傾けている。
「学校では答えを教えてもらう。でもそれが本当に正しいのかは、いつも自分で考えないといけない」
「学校で教えてもらう答えが正しくないことってあるんですか?」絵梨奈が質問を挟む。
「答えは一つとは限らない、っていうほうが正確かな」と春子先生。「今だってほら、『水になる』だけじゃなくて、『春になる』っていう答えもあった。どっちも間違いじゃない」
僕はピアノの椅子で脚をぷらぷらさせながら、春子先生の話をぼんやり聞いていた。
「何が正しいのか。何を信じるべきなのか。難しいと思うけど、絵梨奈と、もちろん湊にも、そういうことを考えられる大人になってほしい」
春子先生の話は、当時の僕には難しすぎた。けれど自分なりに考えてみた。
絵梨奈の答えは、テストという場面においては正しくないものだったかもしれない。
けれど僕は、絵梨奈が「春になる」と答えたことも、担任の先生に訴えたことも、正しいことだったのだ。そう解釈しておいた。
*
絵梨奈は入学してすぐ多くの友人に囲まれるようになったが、僕はなかなか友達を作れなかった。
たまに忘れそうになるが、僕の感覚はほかの人のそれとは異なるのだ。
音から見えた色のことを口にすると、同級生からは「なに変なこと言ってんだよ」「色なんて見えるわけねぇだろ」とからかわれる。音楽の授業で曲の感想などを書くと、先生からはたいてい「どういうこと?」という反応が返ってくる。
そのせいもあってか、僕は自分の意見や思ったことを人に話すのを控えるようになっていった。
けれど、どうしてこんな感覚をもってしまったんだろう、などと悲観することはなかった。
絵梨奈や春子先生がいてくれたから、僕はそれでいいと思えた。
学校でこそ絵梨奈と会話する機会は少なかったものの、レッスンの日になれば、絵梨奈に会える。絵梨奈と話せる。絵梨奈のピアノが聴ける。
僕は次第に、毎回のレッスンが楽しみになっていた。
モノクロだった自分の演奏に少しずつ色がつき始めたのも、思えばこの頃からだった。
*
まわりの友達より少しだけ早く彼女と出会っていた。
音楽に色が見えることを、素敵だねと言ってくれた。
隣の席になった。寂しさや不安を消し去ってくれた。
それだけのことだったが、彼女は僕にとって、どこか特別な存在になっていた。
僕も絵梨奈にとっての特別な存在になりたかった。
少しでも絵梨奈の近くにいたい。絵梨奈の見ているものを自分も見てみたい。絵梨奈が感じていることを自分も感じてみたい。そう思っていた。
そして、ある日の国語の授業を機に、僕は突き動かされた。
席順に一人ずつ、教科書の文章を句点から句点まで音読していた。僕たちの小学校の先生が「まる読み」と呼んでいた読み方だ。
「しばらくあるくと、女の子のよくしっているみちにでてきました」
「ここからのみちあんないを、おねがいできるかい」
「女の子はおにいさんの手をにぎったまま、だまってうなずきました」
「ここのみちは、どっちにまがればいいんだい」
「こっち、えんぴつもつほう」
「つぎの四つかどは、どっちにまがるのかな」
「おちゃわんもつほう」
「おにいさんとおんなのこは、一つめのみちを右にまがって、つぎの四つかどを左にまがりました」
ここまで読み進めると、担任の先生がいったん音読を切った。
「じゃあ、ちょっとここで問題です。女の子が『えんぴつもつほう』って言ってますが、これは右と左どっちでしょう」
クラスの一人が手を挙げて言った。
「簡単だよ。鉛筆を持つほうの手だから、右でしょ」
「そうですね」先生が頷く。「少しあとの文で、『一つめのみちを右にまがって』と書いてあることからもわかります。じゃあもうわかると思いますけど、『おちゃわんもつほう』は右と左どっちか、わかる人」
続く問いかけに、別のクラスメイトが答えた。
「お茶碗持つほうだから、左」
「次んところで、『つぎの四つかどを左にまがりました』って書いてある」
先生は再び頷いた。
「そのとおり。『えんぴつもつほう』が右で、『おちゃわんもつほう』が左です。右と左は、もうみんなわかりますね」
先生の言葉にみんな納得した様子で、授業は先に進んだ。
僕も難なく理解できた。実際、僕は右手で鉛筆を握っている。ご飯を食べるときは右手にお箸を持つ。つまりお茶碗を持つのは左手だ。
クラスメイトたちも同様に、右手で鉛筆を持っている。先生がチョークを持っているのも右手だ。ご飯のときはお茶碗を左手に持つだろう。
ここでふと絵梨奈のほうを見ると、彼女は首を傾げていた。
絵梨奈は頭がよく、真面目な子だった。彼女に右と左がわからないとは思えない。たぶん、もっと別のことで悩んでいるのだろう。
よく見ると、絵梨奈が鉛筆を持っていたのは、僕と反対の手だった。
左利き、という言葉を知ったのは、この少しあとのことだ。
「鉛筆を持つほう」「お茶碗を持つほう」と言われて首を傾げていた絵梨奈が、僕にはなんだか仲間外れにされているみたいに思えた。
きっと彼女にはまわりの人と違うものが見えていて、違うことを感じているんだろう、と思った。
そして、自分はそんな絵梨奈の仲間でいたかった。
それから僕は、片手で使えるものはできる限り左手で使うようにした。
要するに、左利きになろうとしたのだ。
道具を使うときだけでなく、ものを取り出すとき、ボタンを押すとき、ドアを開けるときなど、常日頃から左手を使っていくことを意識した。初めて使うものはとりあえず左手で使ってみた。
スプーンやフォークは一カ月ほどで、お箸はさらに数カ月かけて、左手でも不自由なく使えるようになった。
掃除の時間に、クラスメイトから「黒川くんって左利きなんだね」と言われたことがある。特に意識しなくても、箒や雑巾くらいは自然と左手で使うようになっていた。
絵梨奈に少し近づけた気がして、僕は嬉しかった。
いざ左手を使ってみると、つくづく世の中は右利きの人が生きやすいようにできているのだと感じた。
そういえば以前、春子先生が「絵梨奈はときどき右手が危なっかしくなる」みたいなことを言っていた。きっと絵梨奈は左手のほうが動かしやすいのだろう。
それまで意識したことはなかったが、ピアノでは左手よりも右手をよく動かさないといけない曲のほうが多い。絵梨奈は大変だっただろうと思う。
絵梨奈に対して知らず知らずのうちにやりにくさを強いたり仲間外れにさせたりしていたのではないかと、子供ながらに申し訳ない気持ちにもなった。
僕がただ一つ左手でできるようにならなかったことといえば、絵を描くことくらいだった。
大ざっぱに色を塗るくらいはできても、思いどおりの線を引いたり細かく力を加減したりすることは、もともとの利き手でないと難しかった。
とはいったものの、紙に絵を描くことなんて図工の時間でもなければほとんどやらない。それに、僕にとってはピアノを演奏することがある意味お絵描きのような行為でもあった。
できる限り絵を描くことを避け、僕は左利きに擬態し続けた。左利きであると自分に言い聞かせた。そうすることで絵梨奈に近づけると思っていたし、絵梨奈にとって特別な存在になれると信じていた。
身近な人の中に左利きは絵梨奈くらいしかいなかったから、左利きであることが一種のステータスのようにも感じていた。
僕にとって「左利き」は、音楽に色が見えるのと同じように、「特別」の象徴となっていた。
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