2018/06/11

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【小説】『白と黒の雪どけに』Film.1~雪が溶けると~ 第10章

──僕の「好き」という感情は、果たして〝正しい〟ものなのだろうか?
 
前 → 『白と黒の雪どけに』 Film.1 ~雪が溶けると~ 第9章
 
最初 → 『白と黒の雪どけに』 Film.0 ~プロローグ~
 
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【Film.1 ~雪が溶けると~】
 
 
◆ 第10章

 中3のクラスは、絵梨奈(えりな)とは別になった。
 岩又(いわまた)ともクラスが離れたおかげか、クラスに僕のことを目の敵にするような奴はいなくなった。
 振り返ると、中学3年間では3年生のクラスが一番居心地がよかったように思う。3年生になってからは出席日数がまた常識的な数に戻った。

 絵梨奈も、僕が言うのもなんだけど、一時期よりずっと顔色がよくなったと思う。
 毎日姿を見るわけではないが、廊下などで見かけるときは、同じクラスの友人とよく一緒にいた。
 2年のときは孤立していることが多く精神的にも余裕がなさそうに見えたが、3年になってクラスが変わると、徐々に落ち着きが戻ってきたように思えた。

 友人関係というと、僕にも友達と呼べる人はそこそこいた。
 ただ、さして深い中ではなかったと思う。大人数で遊んだりちょっと遠くに出かけようなんていうときには声はかからない。そんな程度だ。
 まあ、人付き合いというのはそれくらいの浅さがちょうどいいと思う。

「昨日から始まった8チャンのドラマ、(みなと)見た?」
「ドラマは見てないけど、タイトルは知ってる。けっこう話題になってたよね」
「あれの主役の女優、めっちゃかわいくね?」
「……うん、まあ、そうだね」
「いやその反応、絶対かわいいって思ってねーだろ! 見る目ねーなぁ。てか、湊はどんな子がタイプなんだよ?」
 そんな会話をときどきする。要するに、テレビで見る女優や歌手やアナウンサーやスポーツ選手について、やれ誰がかわいいだの誰が美人だの誰が好みだの、そういった話だ。

 絵梨奈以外の人のことを「かわいい」と言ってしまっていいのか、自信がなかった。
 そもそも好きという感情がよくわからなかったし、絵梨奈以外の女の人を特別な存在だと思ったことがなかったから、好みを訊かれてもよくわからない。
 好みのタイプは「絵梨奈みたいな子」と答えるのが〝正しい〟のかもしれない。

  *

 部活の最後の大会が終わり、期末テストも過ぎた7月のある日。
 偶然にも、帰り道で絵梨奈と一緒になった。
 歩くだけで体が火照ってくる。寒冷なこのあたりの地域にも、暑い夏は毎年やってくる。午後4時を回っていたがまだ日は高かった。

「湊のクラス、合唱コンクールの伴奏と指揮、決まった?」
 僕が訊きたかったことを、絵梨奈が訊いてくれた。
「昨日決まって、伴奏は僕がやることになった」
「よかった。今日、うちのクラスも決まった。指揮は私がやることになったよ」
「そっか。……ありがとう」
 僕のわがままを聞いてくれたことに礼を述べた。
 早くも夏本番に突入したかのような、紺碧の空と厚い入道雲。僕と絵梨奈の思い出は決して多くはないかもしれないが、その中でも夏の記憶は特に少ないな、なんて思った。

「……じゃあ、去年のリベンジだね」
「うん。賞とろう。お互いに」

 4カ月前、ピアノの発表会の本番後のことを、絵梨奈も覚えてくれていたようだった。

  *

 あの日の本番中のことは、よく覚えていない。気がついたら演奏が終わっていた。
 拍手を浴びて、いろんな人から労いの言葉をもらってようやく、あぁ弾けたんだな、という実感が湧いてきた。

 そして実感が湧いたからこそ、僕はやっと絵梨奈と話せると思ったし、今日こそ話さなければいけないと思った。

 発表会の全プログラムが終わり、僕と絵梨奈と春子(はるこ)先生の3人は会場のロビーにいた。
 僕たちが話していたのは、僕以外の生徒のことや先生たちの演奏のことなど、もっぱら発表会についてだった。
 絵梨奈とはまだ少し目が合わせづらかったし、彼女もどこか気まずそうにしていたように思う。学校の話題はお互い避けていた。
 自然な会話ではあったが、たぶん春子先生は僕たちの空気を察して、学校での近況や僕と絵梨奈の関係などについては触れないでくれていたのだろう。
 僕は絵梨奈に言わなければならないことがたくさんあった。しかし機会を見計らってはいたものの、なかなか切り出せずにいた。

「絵梨奈は、湊が弾いた『愛の夢 第3番』っていう曲は知ってた?」
 どんなタイミングだったか、春子先生が絵梨奈に尋ねた。
「聴いたことはあったんですけど、詳しくは知らないです」と絵梨奈。

「おお、愛しうる限り愛せ」
 春子先生が、昔聴いていた歌を思い出したかのように呟いた。
 絵梨奈は首を傾げていた。

 ──おお、愛しうる限り愛せ。
 僕には聞き慣れた言葉だった。

「リストの『愛の夢 第3番』はね、もともとは歌曲として書かれたものなんだ。『おお、愛しうる限り愛せ』っていうのは、その歌の冒頭の一節」
 怪我が完治するまでの間、基礎練習をしていただけでなく、僕はリストのことや『愛の夢』のことを調べさせられた。春子先生からいろいろと話も聞かされた。
「『愛の夢』なんてタイトルだから誤解されやすいけど、これは恋愛を歌ったものじゃなくて、人間愛──つまり恋愛よりもっと普遍的な、友愛とか、慈しむ心を歌ったものなんだよ」

 そして春子先生が、今度は僕に言う。
「あの歌の歌詞ってさ、何々せよとか何々しなさいとか、そういう感じの言葉が多いのに、湊はそのメッセージを、誰かに届けるんじゃなくて、自分に言い聞かせるように弾いてたよね」
 その言葉に、僕は「そうでしたか?」と返しそうになった。練習でもそんなふうに意識して弾いたことはなかった。
 だけど。
「……あ、そうかもしれないです」
 ぼんやりとしている本番中の記憶を手繰り寄せてみたら、思い当たる節があった。

 僕の指は、何かに取り憑かれたように鍵盤の上を動いていた。
 その何かにはたぶん、自分への戒めも込められていたかもしれない、という感覚があったのだ。

「『あなたに心を開く人を、悲しませてはなりません』だっけ」
 春子先生が持ち出したのは、『愛の夢』の歌詞の一部分だった。
 ──あなたに心を開く者がいれば、その者のために尽くしなさい。
 ──どんなときもその者を喜ばせなさい。決して悲しませてはなりません。
 たしかそんな感じの歌詞が、『愛の夢』にはあったはずだ。

 だからこそ、絵梨奈が見に来ているこの場で、なんとしても弾かなければ、と思ったのだ。

「湊、言うべきことがあるでしょ」
 春子先生の表情が変わったのを、僕は見逃さなかった。
 僕を諫めるようでもあり、僕を慰めるようでもあった。
「たしかに例の件は、湊にも非がある。だけどそれは喧嘩をふっかけたことでも手を怪我したことでもなくて、絵梨奈に何も言わなかったことだからね」
 言い終えたときには、春子先生は穏やかな表情に戻っていた。

「……はい。わかってます」
「もう、私がいなくても大丈夫だよね」
「はい。ありがとうございます」
 春子先生は僕にチャンスをくれたんだ、と思った。

「じゃあ、私はあっちに行ってくる」と言って春子先生は、ほかの生徒や保護者のところへ行ってしまった。

  *

 僕と絵梨奈は二人で向き合う形となった。
 言いたいことはいくつもあったのに、言わなければいけないことはわかっているつもりなのに、こういうとき、言葉というのはなかなか出てこないものだ。
 まだ彼女の顔を見ることは躊躇われた。

「『愛の夢』さ……」
「うん?」
「6年生のとき、絵梨奈が発表会でリストを弾いたのを見て、僕も最後の発表会ではリストを弾くって決めてたんだ」
「……そう、なんだ」
 どう返したらいいか、というリアクションだった。まあ無理もない。これは僕が勝手に決めたことだ。これはこれで、僕としては心に決めた大事なことではあったが、今は小さなことだった。
 それに僕だって、「絵梨奈が弾いたからって、じゃあなんで自分もリストを弾こうと思ったの?」とか訊かれたら、上手く答えられないだろう。

 ──今僕が言わなければいけないのは、そんなことじゃない。

「何かあったんでしょ」と春子先生に指摘されたあの日、僕はようやく気づかされた。
 考えてみたら、僕だけが傷ついたわけではない。
 むしろ絵梨奈のほうが深く傷ついたのではないか。
 怪我したからどうとかピアノが弾けないからどうとか自分のクラス内での立ち位置がどうとか、そんなことを気にする前に、僕はまず絵梨奈に謝らなければならなかった。

「合唱コンクールのことだけど、あのとき、一人にしないって言っておきながら、勝手に怪我して、ピアノ弾けなくなって……、ごめん」
 僕は絵梨奈に頭を下げた。
 どのくらい頭を下げたらいいのだろう。変に深く、あるいは長時間頭を下げていたら、かえってわざとらしく見えてしまうのではないだろうか。誠心誠意向き合わなければならない場面、なのになのかだからこそなのか、そういうことが気になってしまう。

「あの頃の湊は、自分以外すべて拒絶してるみたいだった」
 絵梨奈の言葉で、姿勢を戻す。口調は穏やかだったが、僕には冷たい刃のように感じられた。
「合唱に参加しなくなって、私とも口きかなくなったし、目も合わせなくなったよね」
 彼女はどんな表情をしているだろう。怖くて確かめることができなかった。
「……寂しかった。指揮台に立ってどこを見ても、湊がいなかった。ピアノの向こうにも、歌ってる人の列の中にも」

 ──あなたに心を開く者がいれば、その者のために尽くしなさい。
 せっかく心を開いてくれた絵梨奈に、僕は尽くさなければならなかった。
 ──どんなときもその者を喜ばせなさい。決して悲しませてはなりません。
 彼女を喜ばせることができなかった。彼女を悲しませることしかできなかった。

 結局のところ僕は身勝手で、自分のことしか考えていなかったのだ。

「……言い訳にしか聞こえないかもしれないけどさ」
 あの日の顛末を、春子先生に話したのと同じように、絵梨奈にも打ち明けた。
 僕は〝正しくない〟立場にいるから、何を言っても聞いてもらえないだろう。
 それでもいい。春子先生は、僕にも訴える権利はあると言ってくれた。なら、伝えるだけ伝えてみよう。味方になってもらえなかったとしても、それは覚悟の上だ。

 僕が話し終えても、絵梨奈はしばらくの間、何も言葉を発さなかった。
 考えていることが読めない。何を今更、と呆れかえっているのかもしれない。
 正面から向き合わないといけないのだろうが、僕の視線は、彼女の首元や彼女の背後の壁などを行き来してしまっていた。

「あの日のこと、初めて湊から聞いた」
 やがて絵梨奈が、ぽつりと言った。

「許してくれとか、わかってほしいとは言わない」
「正直、許したくなかった」
「うん。本当に、ごめん」
「……だけど私も、湊のことを何も考えられてなかった」

 ──心の中で吹き荒んでいた雪が、ふいに止んだ気がした。
 僕なんかがこんなこと言われてしまっていいのかな、と思った。

「だから、私も悪かった。ごめんなさい」
 絵梨奈が頭を下げたのを見て、僕は呆気にとられていた。
 ──なんというか僕は、本当に運がいいな。

 彼女が顔を上げたとき、僕たちはようやくお互いの顔を正面から見つめ合えた。

  *

 さて、春子先生に指摘された「言わなきゃいけないこと」は、これで終わりだ。
 だが僕にはまだ、絵梨奈に言わなければならないことがあった。

「もう一回、絵梨奈の指揮でピアノを弾かせてもらいたいんだけどさ……、ダメかな」

 絵梨奈がすぐに返答しなかったのは、僕を試していたのか、信用に値するか考えていたのか、はたまた単にきょとんとしていただけなのか。
 若干の躊躇いはあったものの、彼女は「いいよ」と頷いてくれた。

「だけど、3年生で湊と別のクラスになったら?」
「うん、そうなったら、合唱コンクールではもうできない」
 僕が通っていた中学は一学年が6クラスあった。だから翌年も同じクラスになる可能性は低いと思ったし、案の定、3年ではまた別々のクラスになってしまった。合唱コンクールで僕たちが再び伴奏と指揮をすることは叶わなくなった。
 ──だから合唱コンクールではなく、別の機会で。

「うちの姉が言ってたんだけどさ、卒業式で卒業生合唱ってあるじゃん。あれの指揮と伴奏、合唱コンクールで、3年生で指揮者賞と伴奏者賞とった人がやるらしいんだよ」
 ここまで言うと、絵梨奈も僕の言いたいことがわかったようだった。

「だからさ、卒業式。卒業式の伴奏と指揮。あれやろう、僕らで!」

 ずいぶん無茶な約束だな、と自分でも思う。
 だが絵梨奈は躊躇うことなく了承してくれた。
「わかった。合唱コンクールのリベンジだね」
 そう言って絵梨奈は右手を差し出してきた。

 2年前、絵梨奈の最後の発表会のあともこんな感じだったな、なんて思った。
 もっとも今日の絵梨奈は発表会用のドレスではなく普通の私服姿だったが、それでも学校で見る制服姿やジャージ姿よりはずっと特別に思えた。

 絵梨奈は左利きだが、握手は利き手関係なく右手でするのがマナーなんだっけか。まあこの場に限っては、もう怪我なんてするな、というメッセージも込められていただろう。
 彼女のことを、僕はとても愛おしく思えた。
 背は絵梨奈のほうが高かったが、手は僕のほうが大きかったかもしれない。
 握り返してみると、その手はとても繊細で柔らかくて、温かかった。

 ──果たせなかった約束を、もう一度。
 
 
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