2018/06/06

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【小説】『白と黒の雪どけに』Film.1~雪が溶けると~ 第8章

──僕の「好き」という感情は、果たして〝正しい〟ものなのだろうか?
 
前 → 『白と黒の雪どけに』 Film.1 ~雪が溶けると~ 第7章
 
最初 → 『白と黒の雪どけに』 Film.0 ~プロローグ~
 
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【Film.1 ~雪が溶けると~】
 
 
◆ 第8章

 ある日突然超能力が使えたりとか、とっさに機転を利かせて相手の度肝を抜けたりとか、ピンチのときに身体能力が高まったりとか、誰もが一度はそんな、少年漫画の主人公みたいになれたらいいのにと考えた経験があるんじゃないだろうか。
 だけどそんなのはしょせん空想であり憧れであって、現実では弱い者は強い者に一方的にやられるしかないのだ。

  *

 音楽の授業のあと絵梨奈(えりな)と二人で教室に戻った、その日の昼休み。
 ほかのクラスが合唱の練習をしているのが聞こえてきたが、僕のクラスには誰一人練習しようとする人はいなかった。
 教室に残っていた人は少なかった。
 何をしていたのかは知らないが、絵梨奈もこのときは教室にいなかった。

 給食を終え、たまたま当番だった僕は後片づけのために教室を数分離れた。
 当番の仕事を終えて戻ってくると、僕の机はひっくり返され私物は床にばら撒かれていた。

 またか、と思った。
 僕のことをよく思わない奴は多いかもしれないが、こんなことをするのはクラスに一人しかいない。
 あいつには下手に抵抗しないほうがいい。ここでムキになってはいけない。
 何も言わずに散らばったものを拾い集めていたら、何か足りないことに気がついた。音楽の教科書と合唱曲集だ。
 教室前方に目をやると、岩又(いわまた)がまさにその2冊をゴミ箱に突っ込んでいるところだった。

「返せっ」
「あぁ?」
 走り寄ってきた僕を一瞥し、彼は埃を払い落とすように手をたたいた。

 殴ってはいけない。そもそも人を殴ること自体〝正しくない〟し、僕なんかでは彼には勝てないことは火を見るより明らかだった。
 それだけではない。手を出すこと自体が禁忌なのだ。
 万が一指が折れたりでもしたら、ピアノが弾けなくなる。
 合唱コンクールの伴奏ができなくなる。それどころか、春先の発表会にも出られなくなるかもしれない。

「なんだよ、せっかく一緒にしてやるっつーのによ!」
 岩又がそう言って向かったのは、廊下側の一番前。
 ──絵梨奈の席だった。

「あっ、おい!」
 彼が何をしようとしているのか、瞬時に悟ってしまった。

 ──考えろ。
 しかし考えても、この状況を打開できる策が思いつくわけでもない。
 ──手はダメだ。
 絵梨奈と、ついさっき約束したばかりじゃないか。

「お前らムカつくんだよなぁ。先公みたいにクソ真面目でさぁ、うぜぇんだよ。一緒にゴミ箱ぶちこんでやるよ! ガリ勉同士、お似合いだろ?」
 岩又が、絵梨奈の机の中に手を伸ばす。

 ──手はダメだ。
 と思ったが、出さずにはいられなかった。
 僕は最悪どうなっても、何を言われてもいい。
 だけど僕のせいで絵梨奈がコイツに痛めつけられるのは、それだけは御免だった。

 僕は岩又に体当たりしていた。
「ハァ!? なにマジになっちゃってんのキモっ! ……もしかして白川さんのこと好きなのか?」
 僕は動じないよう努めたが、岩又は図星だろうと言わんばかりに笑って、机から距離をとった。
「おーいみんな聞け! 黒川クンは……」
 すかさず左手で口を塞ぎにかかる。揉み合う形になったところで、「触んなクソ!」と振りほどかれる。
 今度は右の拳を当てにいった。岩又はこれを難なく避ける。

 空振った僕の右手が、窓枠に衝突した。

「……っ!」
「ハハッ! ダッセぇ! 自分で殴って自分で怪我してやがる!」
 窓ガラスが割れることはなかったものの、窓の木枠を思い切り殴った右手は、その拍子に鍵の部分で引っかきでもしたのか、小指の関節部分の皮膚が切れて血が流れていた。
 それだけでなく、手首から小指のつけ根あたりには擦り傷や切り傷とは違う痛みがあった。指や手首を動かそうとするたびに、体の内側が軋むようにズキズキと痛む。

「んだよっ!」
 蹲りたくなるのを堪えて左手で反撃しようとしたが彼のほうが素早く、わずかに届かない。
 そして彼の怒りにも火がついたようだった。
「あぁ!? テメーやんのかコラ!!!」
 ベタな脅し文句を吐きながら、僕の胸ぐらをつかむ。
 返答を待たずそのまま廊下に出て、されるがままの僕を壁に押しつけた。教室では暴れるには狭すぎると判断したのだろう。
 頬、肩、腹に拳を、太腿に蹴りを入れられた。一撃一撃が重かったが、痛みに屈してはいけないと思った。

「ああぁーっ!!! だぁっ!! くそおおおおおおおおお!!!!!!」
 僕は叫び声をあげずにはいられなかった。
 しかし悲しいかな、叫んでも僕は漫画の主人公みたいに強くなれるわけではない。一矢報いることすらできない。ここで左手に秘められた力が覚醒したりでもすれば、どんなによかったか。

 教室から廊下から、多くの視線が僕たちに集まるのがわかった。
 彼らが僕を見て、わがままに喚く幼児のようだと思ったか、キレるとヤバい奴だと思ったか。後者だと思ってくれていたら、それがささやかな喜びだった。
 この場に絵梨奈がいなかったのはせめてもの救いだった。彼女がいたら僕はまた違った行動に出ていたかもしれない。こんな無様な姿は見せられない。

「うああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
 こんなに喚いたのは何年ぶりだろう。小さい頃に家で泣き喚いたことはよくあったが、学校ではたぶん初めてだ。
 久しぶりすぎて一発で喉が枯れたが、それでも怒鳴らずにはいられない。
 右手には力が入らなかった。左手になけなしの力を込めて反撃してみるが、岩又には笑いの種にしかならなかったようだ。
「ハハーッ! 弱ぇ! ほんとダセぇ!! バカじゃねぇの!?」

 ──呼吸が荒れる。眩暈がする。
 僕の胸ぐらをつかんだまま岩又が再び殴りかかろうかというとき、担任の先生が彼を僕から引き剥がした。
 同時に、僕も別の先生に押さえつけられていた。例の理科教師だった。……よりにもよってコイツかよ。
「離せ! てめっ! クソっ! 離せよ!!」
 およそ優等生が先生に対して言わないであろう暴言を、僕は平気で叫んだ。
 先生に対してここまで強く抗ったのは、これが最初で最後だったと思う。

 ──呼吸が荒れる。眩暈がする。
「どけ! タバコ臭ぇんだよ近寄んな!」
 お前の手助けなんかに頼ってたまるか、とばかりに理科教師に抵抗するも、ひ弱な中学生の僕が大の男相手に力で敵うはずがなかった。
 岩又にはさらにもう一人の男性教師が食らいつき、ようやく取り押さえたようだった。自分の非力さが悔しかった。

 ──呼吸が荒れる。眩暈がする。
 ──頭がガンガンしてきて、何が痛いのかよくわからなくなってくる。
 それから僕たちは、3人の先生を前に廊下に並んで立たされ、説教を食らった。
 このとき何を訊かれてどう答えたかはよく覚えていないが、岩又のほうがいくぶん冷静に受け答えをしていたように思う。
 バカらしい、早く帰してくれ、とばかり僕は考えていた。
 何より、この場を絵梨奈に見られたくなかった。

 ──呼吸が荒れる。眩暈がする。
 ──息を吸いたいと思っても吸えなくて、吐きたいと思っても吐けない。
「ああそうだよこっちが悪かったよ! はいはいゴメンナサイ! もういいだろ!」
 僕は終始そんな口調で吐き捨てていた。というのも、なぜか僕も悪いみたいな扱いをされていたからだ。
 事の発端は岩又が僕の教科書をゴミ箱に捨てたことだが、たしかに先に手を出したのは僕のほうだった。
 だが僕はこのとき、悪いことをしたとは欠片も思っていなかった。仮に今同じ状況に立たされたとしても、僕は自分が悪いとは思わないだろう。

 ──呼吸が荒れる。眩暈がする。
 ──視界が明滅する。心拍数が上がるのがわかる。
 ──脚に力が入らなくなる。全身が痺れる。息が苦しい。

 立っていられなくなって、壁に寄りかかった、つもりだったが脚の踏ん張りがきかず、そのまま僕はその場に倒れ込んだ。
 説教は打ち切られ、僕は保健室に連れて行かれていた。

  *

 過呼吸ですかね、興奮しすぎて呼吸が乱れたんでしょう、怪我もしてるのに無理しすぎたんだよ、みたいな言葉が聞こえた。
 それなりに時間はかかったが、保健室のベッドで横になっているうちに呼吸は正常な状態に戻った。
 体を動かそうとしたら、右手に鈍い痛みがあった。
 包帯が巻かれていたのを見て、右手の傷を今更のように思い出す。
 怪我の応急手当は受けたが、これは病院で診てもらったほうがいいという養護教諭の判断で、午後の授業は受けずに早退し、病院に直行することになった。

 診断の結果は、右手の手首と小指のつけ根の、2カ所の骨にヒビ。
 ほかにも殴られたり蹴られたり打ちつけたりした箇所はあったが、右手だけ当たりどころが悪かったようだ。完全に自滅だった。
 1カ月ほどギプスをつけなくてはいけないらしい。
 動かさなければ痛みはなかったが、その期間、もちろんピアノは弾けない。

 殴られた腹や顔などを派手に怪我していれば、あるいは岩又が凶器の類でも持っていれば、あいつに重い責任をなすりつけることができたのに、という考えが頭をよぎった。
 だがそれを口にするのは〝正しくない〟と思った。

 手首と指を固定して、顔に痣を作って、制服に血の跡をつけた僕を見て、親は僕を叱責した。翌日登校すると、まず担任の先生と、それから音楽の先生にも怒られた。
 まあ当然のことだろう。

 幸い僕と絵梨奈以外にもクラスにピアノを弾ける人はいて、伴奏の代役はすんなり見つかった。もっとも、練習期間が短かったため苦労はかけてしまったようで、そのことで僕はまた恨みを買うこととなったのだが。
 負傷したのが右手だったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。もともとの利き手である右手よりも、今となっては左手が使えなくなるほうが生活に支障が出る。

 この件において、僕は何一つ正しくなかった。

  *

 それから僕は、学校を休みがちになった。一日行っては三日休んで、みたいな日々を繰り返した。この頃には僕も塾に通っていたので、学校に行かなくても勉強はなんとかなった。
 合唱の練習がある日はすべて休んだ。合唱コンクール本番にも、この年は結局参加していない。

「絵梨奈に会いたい」という気持ちを、「絵梨奈以外に会いたくない」という気持ちが上回ってしまったようだった。

 この頃には、僕は絵梨奈のことを好きなのかもしれないと自覚していたと思う。
 しかし、「好き」なのだと確信することはできなかった。
 一人にしない、という約束を破ることになってしまった僕のことを、絵梨奈がどう思ったかわからなかったし、尋ねることもできなかった。
 本当に「好き」ならば、卑小な不安など意にも介さず何かしらの行動を起こしているんじゃないのか。
 本当に「好き」ならば、何があっても喧嘩で手を出すことはしないんじゃないのか。

 今の僕が抱えている「『好き』という感情が〝正しい〟ものなのか」という疑問は、この頃から芽生えていたのかもしれない。
 
 
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次 → 『白と黒の雪どけに』Film.1 ~雪が溶けると~ 第9章
 
 

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