
突然ですが、質問です。
あなたは、生きづらいですか?
「生きづらさを抱えていますか?」でもいいです。
この質問に、あなたは答えられますか?
はっきりと答えられるならば、この先の文章は読まなくて構いません。
おそらくあなたが共感できることは何一つ書かれていないと思います。
ここからは、「自分は生きづらさを抱えているのか?」という問いに答えを出せないあなたと感覚を共有したくて書きます。
僕も以前、ある人から「生きづらいですか?」と訊かれたことがあります。
それに対して僕は、「そんなもん、生きづらいなんて自分から言えるわけないじゃないですか」と返しました。
そうしたら、心底不思議そうな顔をされたんですね。
なんで僕がこんな返答をしたのか、という話です。
昨今、個性や価値観の多様化が認められ、それに伴っていろんな「生きづらさ」が認められてきたように思います。
声を大にして「生きづらさ」を主張しやすくなったことで、これまで目を向けられてこなかった「生きづらさ」が顕在化してきた、といったところでしょうか。
そして、そんな「生きづらさ」の受け皿も増えてきました。
しかし僕は、「誰もが生きづらさを主張できる世の中」って、果たして「誰もが生きやすい世の中」なのかな? ということを、常々疑問に思います。
「私と同じことを思っている人がいる」「私も生きづらさを主張していいんだ」と考える人はきっと増えたでしょう。救われた人も多いでしょう。
それはいいことだと思います。
一方で、「私と同じことを思っている人なんていない」「私なんかが生きづらさを主張してはいけないんだ」と考える人だっていると思うんです。
あの人くらいつらくなきゃ「生きづらい」なんて言う資格はないんだろうな、とかえって肩身の狭い思いを強いられる人がどこかに出てくると思っています。
(というか、僕自身がわりとそうです)
だから「生きづらさを抱えている」なんて誰もが言えるものではないだろう、というのが僕の考えです。
このような人たちを「生きづらさ予備軍」としておきます。
昨今はそういう「生きづらさ予備軍」の人たちが考慮されず、「生きづらさ」という言葉が一人歩きしているような気がしてならないのです。
「生きづらさ予備軍」の人にとって何よりも怖いのは、生きづらさを抱えていない人から否定されることではなくて、「同じように『生きづらさ』を抱えている人から生きづらさを認めてもらえない」という恐怖だと思います。
「猿でもわかる」と謳われている本の内容を理解できなかったら?
「みんな仲良し」をモットーとするクラスで仲間外れにされたら?
それと同じことです。
救われる人が多くなるほど、救われない人が感じる絶望や孤独は大きくなっていくんです。
僕が「生きづらさ」という言葉にいつもモヤモヤしたものを感じるのは、こういった理由からなのかもしれません。
僕もブログなどで「生きづらさ」という言葉を使うことはありますが、それは便宜上そう言っている場合か、何かに媚びている場合です。
いずれにせよ、内心すごくモヤモヤしています。
以上、「生きづらいですか?」と訊かれて「生きづらいなんて自分から言えるわけないじゃないですか」と返したら心底不思議そうな顔をされた話でした。
それでは、今回はこのあたりで。