自分だけではないと信じたい話。
僕がそう感じているだけなので、僕以外の人はこれから述べることには一つも共感できないかもしれない。
そんな話です。
小学生や中学生くらいの頃、勉強していたのを見下されたせいで「勉強」ができなくなってしまったり。
あるいは、誰かを好きだったことを笑われたせいで「恋愛」を拒絶してしまったり。
あるいは、頑張っていたことを否定されたせいで「努力」を受け入れられなくなったり。
あるいは、構ってちゃんだったのをバカにされたせいで「自分の売り込み」ができなくなったり。
これって僕だけなのかな、と思うんです。
そういうことができる人はたくさんいます。
僕が未熟なだけです。
だけどどうしても考えてしまうのは、僕は昔バカにされていたのに、どうしてあいつらは何も言われないんだろう ということです。
「忙しい」ことを理由に友人と遊ぶのを断ったら、後日その友人との関係がギクシャクしたこともありました。
逆に、「忙しい」からと断られたこともあります。仕方ないとは思いつつも、なんかモヤモヤしました。
いつからか、「忙しい」という言葉は人間関係を壊しかねないという意識が刷り込まれましたような気がします。
あとは、ちょっと早く学校に来ていたら「何こんなに朝早くから来ちゃってんの?」と言われたりとかですね。
いつも時間ギリギリに行くようになったり遅刻癖がついたりしたのも、十代前半頃に積み重ねられた言葉が未だに尾を引いているからではないか、と思わなくもないです。
「勉強」も「恋愛」も「努力」も「自分の売り込み」も悪いことではなく、むしろ良いことです。
大人になり、それらはますます奨励されるスキルともいえます。
「忙しい」と言えることも我が身を滅ぼさないために必要なことの一つだし、人より早く勉強や仕事を始めるのも時には大事なことです。
できることで良い評価を得られる、場合によってはできなければいけない、そういう類のものです。
僕はそれらができなくなりました。
もう一度言います。
僕は昔バカにされていたのに、どうしてあいつらは何も言われないんだろう。
少し話の趣旨からは逸れるかもしれませんが、昨今、「残業をなくそう」「残業はするべきではない」「残業するのは仕事の効率が悪いからだ」などという声が頻繁に聞かれます。
ですが、この風潮があまり蔓延しすぎるのもよくないんじゃないかと思います。
残業を奨励するつもりはありませんが、どうしても残業あるいは長時間労働が必要になることはあります。
しかしそのような場合に当事者が感じる精神的負荷が、「普通より長く働くこと」を悪とする不特定多数の人々からの言葉のせいで、必要以上に大きくなってしまうのではないかと思うのです。
「ほめられずに育った子は自己肯定感が低くなる」という傾向があるといわれていますが、それと同じことだと思います。
(僕は一応、それなりにほめられて育てられたほうだと自分では思っています)
なんだか不公平を感じるというか、光の当たらないグレーゾーンというか。
だからこそ、僕はそういうところにいる人たちを物語の中で書いていきたいのかもしれない。
大人になっても「勉強」に抵抗を感じない人。
大人になっても躊躇なく「努力」と言える人。
大人になっても堂々と「恋愛」できる人。
大人になっても自分を「忙しい」と思える人。
大人になっても「自分の魅力」を売り込める人。
彼らは、子どもの頃に笑われたり否定されたりした経験も、誰かがそうされているのを見た経験もないのかな? と思ってしまいます。
「かつて否定されたものともう一度向き合う方法」みたいなものがあったらちょっと知りたいです。
それでは、今回はこのあたりで。