あなたが桜を見ていたことを思い出した。
月明かりが照らす川の土手。
聞こえてくるのは私の足音だけだ。
このあたりも満開になったんだな、なんて今更ながらに思う。
桜を見るとあなたを思い出す、というのは少し違う。
あなたが桜を見ていた、ということを思い出したのだ。
あなたが呟いた何気ない一言を、あなたが見せた何気ないしぐさを、わたしはすべて覚えている。
その中の一つに桜があったというだけだ。
ほんの一瞬のようでいて、とても長い時間を過ごした気もして、だけど数えてみたら、あなたと過ごした時間の中に桜の季節は一度しかなかった。
──人生であと何回、桜を見れるだろう。
そう言ってあなたは、スマホで桜の写真を撮った。
その言葉を聞くまで意識したことがなかったけれど、桜は一年の中の決まった時期にしか咲かないし、それも何日も見れるものじゃない。
散ってしまったら、次の年まで見ることはできない。
だから儚く、貴重な時間なのだ。
見せてもらったその写真には、奥のぼやけた薄桃色に、手前のくっきりとした桜の花びら。暗い色の枝がいいアクセントになっている。
短い命を懸命に咲き誇っているように思えた。
それはあなたにとっては何気ない一言で、どうってことない一枚だったかもしれない。
あの日撮った桜の写真だって、あなたはとっくに消してしまったかもしれない。
足を止めて、月下に咲く花に目を向けた。
この桜をあなたと見てみたかった。
今年のあなたは何を言って、どんな表情をするだろう。
だけど、生きているうちにあと何度あるかわからない貴重な一回を、私なんかが奪ってしまっていいのだろうか。
その一回をほかの誰かと過ごすほうが、あなたにとっては幸せなのではないだろうか。
叶わない願いを、叶えるべきではない願いだと思うことにして、私はそれを胸の内に押しとどめた。
私も桜を撮ってみようと思い、スマホを頭上に掲げた。
月をバックに夜桜を撮ろうとすると、やけに光が眩しすぎるし、なぜかピントがうまく合わない。
月のないほうを向いてシャッターを切ったら、今度は暗すぎて何がなんだかわからない。
シャッター音が数度、空しく響いていた。
桜を撮るのって、意外と難しいんだな。
あなたがいれば、もう少し綺麗にこの情景を切り取れたのだろうか。
いや、そんなこともあるわけないか。
私は結局、今撮った写真をすべて削除して、再び歩き出した。
桜は私にとって、特別なものではない。
季節が巡るたびに、空の色が変わるごとに、私はあなたのことを思い出すだろう。
風が吹いた。
花びらがわずかに舞い散る。
ふいに胸を締めつけられそうになって、私は身を縮めた。
3月の末なのに、夜の風にはまだ冬の名残さえ感じる。
高い枝の先には満開の花が咲いている一方で、足元を見てみると散ってしまった花びらも多いようだ。
──人生であと何回、桜を見れるだろう。
あのときは、その回数が減ることを悲しく思う私がいた。
けれど今は、早くゼロになってしまえと思う自分がいる。
あなたに会えない寂しさと、あなたと過ごした思い出と、どちらが先に枯れるだろう。