(初出:2017年9月19日)
考えごとというか雑記というか。
何か知識を得たり、新しいことができるようになったりすると、今まで見えていなかったものが見えてきて、世界が変わったように思えることがある。
知識や技術は、それ自体はマイナスにはならない。
だけど「世界の見え方」の変化については、必ずしもプラスに働くとは限らないんじゃないかと思う。
たとえば勉強をしていくと、その学問分野の奥深さがわかる一方で、ときには自分の無知を思い知ることになる。
それでモチベーションが上がればいいけど、もうやりたくないと思ってしまう場合だってある。
絵を描いていた人で、「自分が絵が描けるようになると、今まで見てきた絵画や漫画の色使いやデッサンの細かいミスなどが気になるようになり、絵を楽しめなくなっていった」「自分の作品も同じように見られているんじゃないかと思うようになり、懐疑的、批判的な自分が嫌になり、しまいには絵を描くことを投げ出してしまった」というような話を聞いたことがある。
これは自分の経験談になるけど、IT企業で働いていた頃、プログラミングを習得するにつれて、身の回りのIT機器やシステムがまったく違ったものに見えるようになる気がした。
人によっては楽しいと感じるのかもしれないけど、僕はなぜか漠然とした恐怖を覚えた。
働くということそのものについても言える。
仕事をこなしていくことで、会社に適応していくことで、社会とかお金に対する価値観や自分以外の働く人を見る目が変わっていって、僕はそこに、自分が自分でなくなりそうな不安を感じた。
僕が働くことに抵抗を感じるようになった原因の一つにも、こういった「世界の見え方の変化」があったんじゃないかと思う(少なくとも僕の場合は、仕事内容や人づきあい以前の問題だった)。
要するに、物事の上達のためには、あるいは長く続けていくためには、こういった「世界の見え方」が変わっていくことに耐えられるか、というのが一つある気がする。
世界は、何も知らないほうが綺麗に見えることもある。
好きなものを好きであり続けるためには、ある部分に対して見て見ぬふりをすることも、ときには必要かもしれない。
物や人を綺麗なまま見ていたいとか、汚い部分が見えてしまうことに耐えられないなどという考えは、いけないものなのだろうか。
はっきりとした答えは、僕にはまだわからない。
もしかしたら絶対的に間違っているかもしれない。
だけど僕は、世界が変わって見えることに耐えられる範囲の中で生きていけばいいと思うし、生きていけるものだと盲信していきたいと思う。
それでは、今回はこのあたりで。
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