(初出:2017年6月30日)
先日、友人と会って少し長話をする機会があった。
思い出話ももちろんたくさんあるのだけど、お互い今年で25ともなれば、人生についての話題も出てくる。
その友人は、高校卒業までは順当に進んでいて、大学も、(第一志望ではなかったとはいえ)現役で合格。
大学を出てからは地方の企業に2年ほど勤務し、この春、東京の大手企業に転職を決めたという。
端から見ればいい人生を送っているはずなのに、どこか生きづらさを感じているようだった。
就職してからは、働き続けていたら自分が自分でなくなってしまいそうで、仕事に適応してしまうのが怖い、というようなことを話していた。業務の内容に思うところがあって転職してからも、それは変わらないという。
さらに、人間関係についても長いこと悩みを抱えているらしい。
「なまじ綺麗な経歴でここまで来てしまったから、どこで道を間違ったのかわからない」
「何も悪いことはしてこなかったのに、どうしてこんなことになったんだろう」
「いっそ高校受験や大学受験で失敗してれば何か変わったのかな」
「転職するにももう少し期間を空けてじっくり考えればよかったかな」
友人は暗い顔で言っていた。
その話を聞いて、僕は、自分だけじゃないんだな、と思った。
僕も同じようなことをよく感じていた。
恵まれている、とは自分でも思う。
だから贅沢な悩みだと言われるかもしれない。
助けを求める権利はないのかもしれない。
たとえば(少し生々しい例かもしれないけど)、お金があっても、収入と同じくらいの負債があったり、まわりに理解者や協力者がいなかったり、お金を得ることにいっぱいいっぱいで心に余裕をもてなかったりする人が、今の時代は少なくない。
こういう人たちも、現代においては「貧困」といっていいと思うし、救われるべきだと思う。
こういう人たちのことは、何と呼べばいいのだろう。
恵まれているけどどこか充足感を得られない人。
期待してくれる人はいてもそれに応えられない人。
居場所がわからずなんとなく暗い場所にいる人。
少なくとも、僕の身近なところにはいた(自分で言うのもなんだけど、僕自身もそういう人間だと思っている)。
彼らに何を与えればいいのか、どんな言葉をかければいいのか。
僕にはまだわからない。
だけど先述の友人の話を聞いて、僕は少し救われた気持ちになった。
私事になるけど、僕は先日『明日はきっと晴れますように』という小説を書いた。
その中で僕は、「いじめというには大げさだと思う。」「世の中は中途半端なものに対しては無関心なきらいがある。」「ようやく自分で自分に諦めがついた。」などの文を書いた。
僕は主人公の明日香を、「中途半端な日陰者」として描きたかったのだと思う。
あるいは、そういう僕の姿を、明日香というキャラクターに投影させたかったのかもしれない。
ある人がこの話を読んで、「なかなか誰も注目してくれないところを表現してくれた感じ」と言ってくれた。
他にもそういうふうに感じてくれる人がいてくれたら、僕としては嬉しいし、書いてよかったと思う。
今後も物語を作っていくのなら、僕は「なんとなく幸せを感じられない」人を描いていきたい。
『明日はきっと晴れますように』みたいにうまくはいかないかもしれないし、現実の人は物語では救えないかもしれないけど、できれば救ってあげたいと思う。
僕の言っていることは、共感できない人には本当に共感できないと思う。
だけどこういう“名もなき日陰者”が、少しでも希望がもてたとか、自分だけじゃなかったとか、そういうふうに感じられたらいいなと思う。
自分は不幸だ、だから助けてくれ、などと声を大にして言うつもりはない。
だけど昨今、個性や価値観が多様化しているなら、「不幸せ」だって多様化していてもおかしくないはずだ。
それでは、今回はこのあたりで。