(初出:2016年1月29日)
ちょっとまあ、考えごとです。
何の根拠もない話であることを前置きしておきます。
あるときふと、世の中には「喜びを共有したい人」と「悲しみを共有したい人」がいるのではないかな、と思いました。
楽しさや喜びなどといった“正の感情”を分かち合えないことに寂しさを感じる人もいれば、悲しみやつらさなど“負の感情”を共感できないことに寂しさを感じる人もいるのではないか。
そんな気がしたのです。
もっと考えてみたら、「”喜”を共有したい人」「”怒”を共有したい人」「”哀”を共有したい人」「”楽”を共有したい人」がいるのかもしれない、と思いました。
(ここで注意しておきたいのは、「共有”できる”人」ではなく「共有”したい”人」であることです、と断っておきます。)
具体的には(あくまで根拠のない完全な私見ですが)、以下のような感じです。
【”喜”を共有したい人】
・喜びや達成感をみんなで分かち合いたいタイプ
・チームプレイが好き
・朗報、吉報、明るいニュースをたくさん聞きたい
・他の人の幸せを自分のことのように喜べる
【”怒”を共有したい人】
・不平不満を打ち明けたいタイプ
・現状に満足しないことが多い
・「こうあるべき」という理想みたいなものをもっている
・愚痴ることでストレス発散できる
【”哀”を共有したい人】
・悲しみや寂しさの理解者がほしいタイプ
・「楽しかった」などの感情はわりと自己完結してしまう
・どちらかというと孤立しがち
・「気晴らしに~」とか「気分転換に~」とかができない
【”楽”を共有したい人】
・楽しいことを他の人と一緒に味わいたいタイプ
・一人でご飯に行ったり遊びに行ったりというのがダメ
・ストレスとかはわりと勝手に解決する
・「一緒に○○しに行こう?」と友人などをよく誘いたがる
何度も言いますがこれは根拠のない私見で、あくまで「傾向」のようなものだし、複数のパターンに当てはまる人もいれば、どのパターンにも当てはまらない人も当然いると思います。
ちなみにですが、僕自身はたぶん「”哀”を共有したい人」だと思っています。
僕は「嬉しい」「楽しい」などという感情はあまり他の人と分かち合わないタイプですね。
「人の不幸は蜜の味」というほどではないですが、他人の幸せを自分のことのように喜べるほど僕はできた人間ではないと思います。
また、基本的に良くも悪くも現状に満足してしまうので、現状への不満を共感してほしいと思うことは少ない気がします。
あと、ぼっち飯、ぼっちライブ参戦などはしょっちゅうやります。ぼっち満喫しています。
そのわりに、「悲しい」という感情に対しては、いつも心のどこかで理解者を求めている気がします。
そんなちょっとした考えごとでした。
それでは、今回はこのあたりで。
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